劉聡の時代とは? わかりやすく解説

劉聡の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 07:42 UTC 版)

陳元達」の記事における「劉聡の時代」の解説

310年7月劉淵没し長男劉和が立つも、間もなく異母弟楚王劉聡謀反によって、妻と息子共殺害され劉聡皇帝即位した劉聡亡父の代からの老臣である陳元達廷尉任命した陳元達剛直の士であり、常に劉聡直言繰り返した劉聡はいつも陳元達へ「朕が卿を恐れさせているのではなく逆に卿が朕を恐れさせているのではないかな」と言っていた。陳元達は、叩頭し劉聡謝し「臣が聞きまするに、臣下を師とする者は王となり、臣下を友とする者は覇に昇ると。臣はまことに暗愚で、見るべきところのない人間です。しかし陛下は、斉の桓公管仲用いたのと同じ美徳で、臣を用いて下さいました。故に臣は愚鈍ながらも忠を尽くさせてもらってます。かつて、前漢武帝臣下の話をよく聞き、国を栄えさせました。夏の桀王殷の紂王は、諫言した人を誅殺し、周の幽王厲王は、誹謗耳を傾けました。故に、夏・殷・周は、その後3代のうちに滅びました。陛下は、殷・周過ちを遠い話と思わず、漢の美徳模範としてくださいますよう。そうなされば、天下には幸いが訪れ群臣はゆとりを知る事でしょう」と述べた313年3月劉聡劉娥皇后立てると、彼女のために皇儀殿を建造する宣言した陳元達難く諫めて「臣は、古代聖王というものは国を家の如く愛し、そのために天がこれを子のように助けるのだと聞きおよんでおります。天が民に君主立てるのは、父母となりてこれに刑賞するためであって億兆の民を一人奉仕させるためでは決してございません。 秦は非道をなして人民草芥のように見ていたため、天によって命脈断たれたのです。そのため、漢によって人々休息得て希望を持つことができたのです。わが高祖光文皇帝は民のために心を痛められ、それが故に自らも、先皇后も質素に振る舞われ南北宮を建てた時も、群臣請願あってはじめて行ったのです。今や殿で充分であるのに、昭徳・温明以後六宮まで至りました陛下即位されて以来、外は二京(洛陽長安)を攻撃しながらも内にあっては宮殿四十カ所余り建立されおります飢饉疾疫重なって死者続出し、外において兵は疲労しにおいては人が怨み抱いているのに、どうしてこれが父母振舞いと言えるでしょうか。晋は滅んだとは言え残党は西は漢中・南は江南拠り李雄巴蜀占有し王浚劉琨は隙を窺い石勒曹嶷からの朝貢次第疎遠となってきております伏して詔を聞きますに、新たに中宮立てられるとのことですが、臣らにとって誠に楽しみとするところです。ですが、いまだに大難がまだ平定されておらず、今は宮殿造営すべきではありません。臣が聞くところによれば太宗文帝)が高祖劉邦)の事業継いだ後、恵呂(恵帝呂雉)の後で四海の富、天下繁栄をもってしてもなお百金の費え惜しんで不朽の業をなしたのです。陛下有する地は太宗遠く及びません。戦守の備えも、太宗時のように匈奴南越だけではないのです。それなのに、宮室奢侈ここまで至りました。臣が敢えて死を恐れず申し上げるのは不測の禍をおそれるからです」と述べた。 これをきいた、劉聡激怒して「朕は万事の主となって一宮殿の造営をするのに、どうして汝のような鼠子に問うことがあろうか。この男を殺さねば朕の心は乱れたままで、朕の宮殿完成などするまい。その妻子とともに引き出して斬り、東市さらしてから鼠と一緒に穴に埋めてしまえ」と汚く罵り陳元達妻子とともにこれを処刑しようとした。この時、逍遙園に中堂があったが、陳元達中堂下のしがみつくと「臣の申し上げるところは社稷の計であるのにも関わらず陛下が臣を誅殺されるならば、上は天に訴え、下は先帝訴えます朱雲はかつて『臣は地下において龍逢や比干知り合うことが出来れば満足です』と言いましたが、陛下は誰と知り合うことになるのでしょうか」と叫んだ陳元達は鎖を腰に下げており、鎖を巻きつけていたために、劉聡左右の者が連れ出そうとしても動かなかった。劉聡庶長子太宰劉易大司徒の任顗・光禄大夫紀と范隆は出血するまで叩頭し諫め武宣皇后劉娥)も手紙送って陳元達助命嘆願したため、劉聡はようやく過ちに気づいた。劉聡陳元達を引を召し寄せる謝罪し劉娥の手記を手渡した。そして「外では公のような者が支え、内では后が助ける。朕には何の憂いもありはしないな」と語った314年1月流星が、牽牛から出て紫微入った。その光は地まで届き平陽北へ落ちた地面激突した流星は肉となった劉聡はこれが気になって群臣に問うたところ、陳元達は「星変の異は、禍行の兆しと言われます。臣は、後宮三后立てた事が原因ではないか恐れております願わくは陛下がこれを慎まれる事を」と答えた。すると劉聡は「流星陰陽理だ人事には何の関わりもないであろう」と返した。 だが、それから数日して、皇后劉娥亡くなった。これ以後劉聡の女漁り益々激しくなり、後宮から秩序なくなった劉聡皇后靳月光上皇后とし、貴妃劉氏立てて左皇后とし、右貴妃靳月華を右皇后とした。陳元達はこの立后について言葉を尽くして諫めたが、劉聡はこれを不快に思い陳元達を右光禄大夫任じ表向き賢人優遇することを示しながら、実際にはその権限奪った太尉の范隆・大司馬の劉丹・大司空呼延晏尚書令の王鑒らが皆上表し、自らの地位陳元達譲ってでも、この人事を止めるよう懇願した。これを受けた劉聡は、仕方なく陳元達御史大夫儀同三司任じた315年陳元達上皇后靳月光淫行行為があったことを上奏した。劉聡靳月光を特に寵愛していたが、陳元達の勢を考慮して皇后から廃した間もなく靳月光恥じ入って自殺すると、劉聡はその容姿追思し、陳元達怨んだ。これ以降劉聡靳月光靳月華の父である靳準陳元達不仲になった。 316年2月劉聡自分腹心である宦官王沈中常侍任命して重用した陳元達太宰劉易大将軍の劉敷・金紫光大夫王延とともに参内して劉聡諌め「今、王沈らは常伯の位にあって生殺与奪の権握り、その勢威海内を傾むかせるほどます。その愛憎によって詔を偽り、内にあっては陛下諂い。外にあっては相国佞しおります。その威権人主変わらず王公でさえ目を側め、卿宰ですら望塵の拝をとっております。彼らは人の推挙にも影響及ぼし実のある選挙が行われることはななりました。そのために、士卒は自らを取り上げるために、政治では賄賂横行するようになり、姦徒集まり忠善が毒されるようになりました。王琰らは忠臣であり、彼らが忠節陛下尽くしていることから、王沈らは自らの姦事が露見することを恐れて極刑に陥れたのです。陛下賢察垂れずに誅戮加えてしまい、怨念穹蒼轟き、痛念は九泉至り悲嘆四海響き賢愚はともに恐れ慄いております王沈らはみな刑余の身(宦官の事)であり、背恩忘義の類です。どうして士人君子のように恩に感じことがあるでしょうか陛下はなぜこれらを親しく近づけ、任用されているのでしょうか。昔、斉の桓公易牙任用した事により乱を招き蜀漢の孝懐帝劉禅)が黄皓任用して滅び招いたことがありましたが、これらは悪い前例です。ここ数年地震日蝕があり、血火災があったのも全て王沈らが原因です。願わくは凶悪の者が刑事参与する流れ断ち尚書御史朝廷万機に当たらせ、相国公卿五日一日政事について議し大臣にはその言を包み隠さず発言させ、忠臣にはその意を通させますように。今、晋の残党平定されず、巴蜀の地は従わず石勒は趙・魏の地に割拠する意思ひそかに持ち曹嶷は全斉の地に王たらんという心を抱いている上に王沈らが大政乱しております陛下心腹四肢患いがない箇所はありません。王沈らの官を免じ有司付して罪を裁かれますように」と上奏した。 劉聡この上表文王沈らに見せると「汝ら陳元達の話によると痴れ者らしいぞ」と笑って言いそのまま対応することなくになった王沈頓首して涙を流し「臣らは小人であって陛下抜擢受けましたが、王公朝士は臣らを仇のように憎んでおり、また深く陛下恨んでおります。どうか臣らを廃して廷内の上下の和を結ばれますように」と言った劉聡は「この文は偽りであり、卿はどうして恨まれることがあるというのか」と答えた。さらに劉粲に問うと、劉粲王沈らが王室忠誠尽くしていると盛んに称賛した劉聡大いよろこび王沈らを封じて列侯とした。 陳元達劉易と共に再び上疏して固く諫めると、劉聡は大怒してその上表文破り捨てた。 3月劉易は父の行為悶えて憤死した。劉易はもともと忠義実直な人間で、陳元達は、諫争する時いつも助けられていたので、劉易卒すると「人がいなくなると、国は滅びる。我にはもう、何も言えないこれ以上黙々と生を盗んでどうなるだろうか」と慟哭し、自宅帰る自殺した陳元達が死ぬと、人々はみな冤罪を哀しんだという。

※この「劉聡の時代」の解説は、「陳元達」の解説の一部です。
「劉聡の時代」を含む「陳元達」の記事については、「陳元達」の概要を参照ください。

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