劉虞との対立
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烏桓族の丘力居がこの間、青州・徐州・幽州・冀州を荒らし回ったが、公孫瓚は対応ができなかった。朝廷は幽州刺史の経験のあった劉虞を幽州牧に任命してこれに当たらせた。劉虞は丘力居を説得し、張純の首を差し出させて帰順させようとし、丘力居もこれを受け入れようとした。公孫瓚はこれを阻止するため丘力居の降参の使者を捕らえて殺害したが、次の使者は間道を通って劉虞に降参の意向を伝えたので、劉虞は諸地に駐屯していた軍を引き上げるとともに、公孫瓚のみを留めて歩兵と騎兵1万を率いさせて右北平に駐屯させた。張純は妻子を捨てて鮮卑を頼って逃走したが、翌6年(189年)3月に食客の王政によって殺害された。劉虞はこの功績で太尉に昇進した。後に董卓の推挙によって公孫瓚は奮武将軍・薊侯に封ぜられた。 異民族に対し恩徳を以た懐柔策を採る劉虞に対し、公孫瓚は「異民族は制御し難いものであるゆえに、彼等が服従しないことをもって討伐すべき。若し今彼等に恩徳を与えたら、益々漢室を軽視するに違いない。劉虞の政策は一時の功名は立てても、長期的戦略ではない」と考えていたため、劉虞が鮮卑族に対して与えた恩賞を常に略奪していた。劉虞は公孫瓚に会見を申込むも、いつも仮病を使って無視されていた(『魏氏春秋』)。 関東において袁紹・韓馥らが義兵を挙げると、董卓は長安に遷都すると同時に劉虞を中央に呼び寄せようとした。また、袁紹らも劉虞を擁立し皇帝に祭り上げようとし、それが拒絶されると、尚書の事務を担当させ官爵の任命を行わせようとした。献帝は洛陽に帰還するため、劉虞の子の劉和を長安から脱出させて劉虞の軍事協力を仰ごうとした。 劉和は武関を抜け出したが、南陽で袁術に抑留された。袁術が劉虞の軍勢を手に入れるために、劉和に手紙を書かせて援軍を要請させたところ、劉虞は数千の騎兵を派遣することに決めた。公孫瓚は袁術の狙いが分かったためこれに反対したが、劉虞の決心が変わらなかったため、自身も袁術の歓心を得るため、従弟の公孫越に数千の騎兵を率いさせ、劉虞の軍に同行させた。公孫瓚はさらに袁術に密使を送って同盟を結び、劉虞の軍の強奪に加担しようとした。このことがあって、劉虞とは不和となったという。 このころ、公孫瓚は、反董卓の義兵に加わると称して安平に駐屯していた韓馥を攻撃し、これを破った。進退に窮した韓馥は袁紹を頼ったという(魏志「袁紹伝」)。 公孫瓚は冀州の住民が袁紹に靡くことに不安を持っていたが、趙雲が義勇兵を引き連れて自分の元を訪れると喜んで歓待したという(蜀志「趙雲伝」が引く『趙雲別伝』)。
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