劉虞との対立とは? わかりやすく解説

劉虞との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 21:18 UTC 版)

公孫瓚」の記事における「劉虞との対立」の解説

烏桓族の丘力居この間青州徐州幽州冀州荒らし回ったが、公孫瓚は対応ができなかった。朝廷幽州刺史経験のあった劉虞幽州牧に任命してこれに当たらせた。劉虞丘力居説得し張純の首を差し出させて帰順させようとし、丘力居もこれを受け入れようとした。公孫瓚はこれを阻止するため丘力居降参使者捕らえて殺害したが、次の使者間道通って劉虞降参意向伝えたので、劉虞は諸地に駐屯していた軍を引き上げとともに公孫瓚のみを留め歩兵騎兵1万率いさせて右北平駐屯させた。張純妻子捨てて鮮卑頼って逃走したが、翌6年189年3月食客王政によって殺害された。劉虞はこの功績太尉に昇進した。後に董卓推挙によって公孫瓚は奮武将軍・侯に封ぜられた。 異民族対し恩徳を以た懐柔策を採る劉虞対し公孫瓚は「異民族制御し難いものであるゆえに、彼等服従しないことをもって討伐すべき。若し今彼等に恩徳与えたら、益々漢室軽視する違いない劉虞政策一時功名立てても、長期的戦略ではない」と考えていたため、劉虞鮮卑族に対して与えた恩賞を常に略奪していた。劉虞公孫瓚会見申込むも、いつも仮病使って無視されていた(『魏氏春秋』)。 関東において袁紹韓馥らが義兵を挙げると、董卓長安遷都すると同時に劉虞中央呼び寄せようとした。また、袁紹らも劉虞擁立し皇帝祭り上げようとし、それが拒絶されると、尚書事務担当させ官爵任命を行わせようとした献帝洛陽帰還するため、劉虞の子劉和長安から脱出させて劉虞軍事協力を仰ごうとした。 劉和は武関を抜け出したが、南陽袁術抑留された。袁術劉虞軍勢手に入れるために、劉和手紙を書かせて援軍要請させたところ、劉虞数千騎兵派遣することに決めた公孫瓚袁術狙い分かったためこれに反対したが、劉虞決心が変わらなかったため、自身袁術歓心を得るため、従弟公孫越数千騎兵率いさせ、劉虞の軍に同行させた。公孫瓚はさらに袁術密使送って同盟を結び、劉虞の軍の強奪加担しようとした。このことがあって、劉虞とは不和となったという。 このころ公孫瓚は、反董卓義兵に加わると称して安平駐屯していた韓馥攻撃し、これを破った進退窮した韓馥袁紹頼ったという(魏志袁紹伝」)。 公孫瓚冀州住民袁紹靡くことに不安を持っていたが、趙雲義勇兵引き連れて自分の元を訪れると喜んで歓待したという(蜀志趙雲伝」が引く『趙雲別伝』)。

※この「劉虞との対立」の解説は、「公孫瓚」の解説の一部です。
「劉虞との対立」を含む「公孫瓚」の記事については、「公孫瓚」の概要を参照ください。

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