劉虞の殺害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 21:18 UTC 版)
やがて劉虞は公孫瓚が乱を起こすことを警戒し、異民族らと連携し数万余の大軍を集め公孫瓚を攻撃した。しかし、劉虞の幕僚である公孫紀が侵攻作戦の詳細を公孫瓚に流すと、公孫瓚は精鋭騎兵数100を選りすぐり、戦闘による被害の拡大の防止に気を取られていた劉虞に対して奇襲をかけて散々に打ち破り、劉虞が居庸に逃れた後も執拗に追撃をかけ、遂に劉虞を捕らえ、薊に連れて帰った(魏志「公孫瓚伝」、『後漢書』「劉虞伝」、「公孫瓚伝」)。 この頃、董卓が死去し、長安の朝廷は劉虞に六州を任せようとし使者の段訓を派遣した。公孫瓚もこのとき前将軍・易侯に封じられたが、公孫瓚はさらに段訓を脅迫して劉虞が皇帝を僭称しようとしたと誣告し、劉虞を一族もろとも処刑し、上書して段訓を代わりの幽州刺史とした。公孫瓚は驕り高ぶり、他人の過ちを記憶し、善行を忘れたので、多くの者が害された。劉虞の使者として長安に赴いていた田疇は、劉虞のために哭礼を行ったため公孫瓚に捕らえられたが、後に釈放されている(魏志「田疇伝」)。 劉虞の臣下の多くが殺害されたが(『英雄記』)、劉虞の旧臣の漁陽の鮮于輔らは閻柔を烏桓司馬に推して烏桓・鮮卑と手を組み数万の兵力を集め、公孫瓚が任命した漁陽太守の鄒丹を斬るなど公孫瓚への反撃を開始した。袁紹は劉虞の子の劉和を擁立し、麴義に命令して鮮于輔らを支援し公孫瓚を攻撃した。公孫瓚は鮑丘の戦いで敗れると、易京城に撤退して籠城することを余儀なくされた。
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