劉胤との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 04:39 UTC 版)
12月、中央への召還を命じられ、右軍将軍に任じられた。だが、郭黙は辺境の将であることに満足しており、宿衛の任に就くことを願っていなかったので、これに赴く前に平南将軍劉胤へ「我は胡を御する以外の才はない。右軍は禁兵であり、実戦の場では恐れがあるだろう。出征したとしても兵卒には経験がなく、恩信も行き渡っておらず、敵に臨めば敗れるであろう。官は才に応じて選ぶべきであり、もし人臣が官を選べば、簡単に乱を招くであろう」と訴えたが、劉胤は「論ずる所はその通りだが、我のような小人にはどうにも出来ぬ」と言うのみであった。いよいよ出発するに当たり、郭黙は費用の援助を劉胤に求めたが断られたので、劉胤を恨んだという。また、かつて郭黙が尋陽に逃れたとき、劉胤の下を詣でた事があった。だが、劉胤の長史張満らは郭黙を軽んじ、服を脱がして辱めたので、郭黙はこれを常々怨んだ。臘日に劉胤は郭黙へ酒一器と豚一頭を贈ったが、郭黙は信書も開かずにこれを水中に投げ捨て、その怒りは益々甚だしかった。劉胤は王導の支持により江州刺史に任じられたが、郭黙は郗鑒と共にこれに反対した。 僑人の蓋肫は孔煒の娘を略取して妻としていたが、孔煒の家族は娘を返還するよう求め、劉胤・張満らはこれを家へ還させようとした。だが、蓋肫はこれを拒んだので劉胤らと対立するようになり、彼は郭黙へ「劉江州は免官を受け入れず、密かに異図を抱き、長史司馬張満・荀楷らと日夜謀略を巡らし、その反逆は形になっております。ただ郭侯一人を忌んだおり、まず郭侯を除いてから事を起こすでしょう。禍が至るのをどうか深く備えられます」と述べた。郭黙はこれにより遂に徒党を率い、夜明け前に劉胤を襲撃した。劉胤は将兵を率いてこれを防がんとすると、郭黙は大声で「我は詔を受けて討伐しているのだ。動く者は誅が三族に及ぶであろう」と言い放った。遂に中へ侵入すると、妾と共にいた劉胤を引きずり出してこれを処断した。さらに、劉胤の参佐張満・荀楷らを捕え、大逆の罪をもって誣告し、尽く処断した。劉胤の首級は建康へ送り、詔書を偽作して内外にこれを知らしめ、劉胤の娘や諸妾・金宝を掠奪してから船で帰還した。 その後、劉胤の江州府を掌握すると、譙国内史桓宣・王愆期らを招聘したが、桓宣は守りを固めて招聘に応じなかった。王愆期は難を恐れ、郭黙に平南将軍・江州刺史となるよう勧めると、郭黙はこれに同意した。だが、王愆期はまもなく廬山に逃亡した。
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