劉繇を破る
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195年、孫策は補佐役であった朱治の勧めもあり、劉繇と対峙している叔父の呉景の援軍に赴くことを袁術に申し出る。袁術はこれを承諾し、上表して孫策を折衝校尉とし殄寇将軍を代行させた。出発前、孫策の軍勢はわずか千人余り、騎馬は数十匹、賓客のうち従軍を願う者は数百人であったが、歴陽に到達する頃には多くの兵が孫策軍に加わり、最初1,000人強しかいなかった孫策軍は5,000人以上に膨れ上がっていた。この中には、周瑜・蔣欽・周泰・陳武・凌操ら孫呉を支える主要な面々が集まっていた。 孫策は長江を渡ると、瞬く間に張英が守る当利口と樊能・于糜が守る横江津を制圧し、劉繇が篭っていた牛渚の要塞も陥落させた。孫策は大量の食料や軍需物資を奪い、劉繇は曲阿に逃走した。更に孫策は劉繇を攻め、劉繇の部将である秣陵城の彭城国相薛礼・県南の下邳国相笮融に狙いを定めた。孫策はまず笮融を攻撃したが、笮融が兵を出してきたので交戦となり、五百級余りの首を斬った。笮融はそこで陣門を閉ざして動こうとしなくなった。そこで孫策は長江を渡って薛礼を攻撃すると、薛礼は攻撃に屈し逃走した。ところが樊能・于糜らは再び軍勢をかき集め、牛渚の屯営を襲撃して奪った。孫策はそれを聞き、引き返して樊能らを攻め破り、男女一万人余りを捕虜にした。その後孫策は再び長江を下って笮融を攻めたが、流れ矢に当たって股を傷付けてしまった。馬に乗ることさえできなかったため、輿で担がれて牛渚の屯営に引き返した。孫策が死んだと思った笮融は部下の于慈をやって孫策を追撃させたが、孫策は伏兵を後方に配置させておき、的が出てきて攻撃を仕掛けてきたとき、矛先を交えないうちに偽って逃走すると、賊は追いかけてきて伏兵の中に飛び込んだ。そこで彼らを大いに撃破し、千級余りの首を斬った。勢いに乗った孫策の軍勢は、笮融の陣営に攻撃して、左右の者に「孫策はここにあり!」と叫ばせた。笮融は恐れてしまい、濠を深くして、ますます陣営を固めた。そこで、孫策は笮融を捨て置き、劉繇の別働隊の部将を広陵郡海陵県で打ち破り、さらに同郡の湖熟県・江乗県を占領した。 この頃、青州東萊郡の太史慈は劉繇の元に身を寄せていた。劉繇軍の中には太史慈を大将軍に任命して当たらせれば、と進言する者もいたが、客将を重く用いることで部下に笑われること劉繇は心配し、太史慈には偵察任務だけを与えた。太史慈は同じく偵察に出ていた孫策ら十三騎と出くわし、これに正面から打ちかかったが、両軍が殺到したため両者は退いた。 その後、孫策に恐れをなした劉繇は曲阿では持ちこたえられないと判断して逃亡し、劉繇配下の郡守たちも守備を放棄して、劉繇と会稽郡丹徒県で合流して長江を渡って豫章郡彭沢県を拠点とした。また、劉繇を失った太史慈は反乱軍を糾合し、丹陽太守を自称して孫策に対抗した。 曲阿県に入った孫策は今まで戦った部下たちに恩賞を労い、多くの民を安定させるように治安の秩序に尽力したため、揚州は安定した。同時に孫策は寛大な政令を出した。「劉繇・笮融の配下の中でも降伏したり帰順する者がいれば、快く歓迎して一切の罪を問わぬこと。また、従軍を希望する者がいれば、その家族の賦役を免除せよ。さらに従軍を拒む者がいれば、そのままにして強制してはならない」という内容であった。多くの人々はこれに狂喜し、わずか十日間で四方から多くの募兵志願者が集まり、孫策の軍勢は3万人ほど増加し、孫策の勢いはますます強大となった。地盤を確保した孫策であったが、袁術との関係を維持するため、袁術から借り受けた兵のうち、叔父の呉景、従弟の孫賁の軍を返還した。 一方、豫章郡に入った劉繇であったが、その時豫章では太守の座を巡って諸葛玄と朱皓との間に争いが起きていた。劉繇は笮融に命じて諸葛玄を殺害させて朱皓を太守の座に就けたが、笮融が突如朱皓を殺害して豫章の支配権を奪い取った。劉繇はこれと戦い何とか追い出すことに成功し、笮融は付近の住民に捕らえられ殺された。その後間もなく劉繇は死去し、豫章太守には朝廷から派遣された華歆が就いた。
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