会稽郡攻略
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196年、劉繇を破った孫策は、厳虎や会稽太守王朗の討伐を計画した。この際、呉景は先に厳虎を討つよう進言したが、孫策は群盗に過ぎないとして、王朗の撃破を優先した。孫策は回り道に軍隊を率いて南呉郡の厳虎の拠点を迂回し、杭州湾の南岸に沿って王朗に向けて進軍した。孫策が会稽に進出して来ると、功曹の虞翻が逃亡を進言したが、王朗はこれを却下した。 王朗は孫策を迎え撃つため、杭州湾の先端にある銭塘江に軍を進めた。孫策は進軍中に叔父の孫静を呼び寄せ、孫静はそれに応じ一族を引き連れて銭唐において孫策に合流した。王朗軍は銭塘江の対岸にある固陵に駐屯して守りを固め、孫策は数度攻撃を試みたが防備を突破できなかった。そこで孫静は孫策に、要害を背にして城に立てこもっている王朗を直接攻めず、南へ数十里離れた要衝の査瀆を攻め取り、そこを足場とするよう進言し容れられた。孫策は夜を待ち、数百個の甕を並べて火を燃やさせ、王朗を欺いてその隙に川を渡った。そして、軍勢を分けて査瀆への道を進み、孫静を先鋒にして査瀆から、高遷にある王朗の軍営を襲撃した。 知らせを受けた王朗は大いに驚き、前丹陽太守の周昕らを出撃させた。孫策は周昕らを撃破してその首を斬り、勝利の勢いに乗って会稽郡を平定した。王朗は城を放棄し船で東冶に逃れたが、孫策が追撃をかけてきたため、さらに大敗した。このためついに王朗は孫策に投降し、降伏が遅れたことを素直に謝罪した。孫策も王朗が儒学教養豊かで、謙虚な人物であったため処刑せずに許した。このとき孫策は会稽太守を自称し、王朗配下の虞翻を招聘し仕えさせた。
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