会稽郡攻略とは? わかりやすく解説

会稽郡攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:29 UTC 版)

孫策の江東平定」の記事における「会稽郡攻略」の解説

196年劉繇破った孫策は、厳虎会稽太守王朗討伐計画したこの際呉景先に厳虎を討つよう進言したが、孫策群盗に過ぎないとして、王朗撃破優先した孫策回り道軍隊率いて呉郡厳虎拠点迂回し杭州湾南岸沿って王朗向けて進軍した孫策会稽進出して来ると、功曹の虞翻逃亡進言したが、王朗はこれを却下した王朗孫策迎え撃つため、杭州湾先端にある銭塘江に軍を進めた孫策進軍中に叔父孫静呼び寄せ孫静はそれに応じ一族引き連れて銭唐において孫策合流した王朗軍は銭塘江対岸にある固陵駐屯して守り固め孫策数度攻撃試みた防備突破できなかった。そこで孫静孫策に、要害を背にして城に立てこもっている王朗直接攻めず、南へ数十里離れ要衝の査瀆を攻め取り、そこを足場とするよう進言し容れられた。孫策は夜を待ち数百個の甕を並べて火を燃やさせ、王朗欺いてその隙に川を渡った。そして、軍勢分けて査瀆への道を進み孫静先鋒にして査瀆から、高遷にある王朗軍営襲撃した知らせ受けた王朗大い驚き、前丹陽太守周昕らを出撃させた。孫策周昕らを撃破してその首を斬り、勝利勢い乗って会稽郡平定した。王朗は城を放棄し船で東冶に逃れたが、孫策追撃をかけてきたため、さらに大敗したこのためついに王朗孫策投降し降伏遅れたことを素直に謝罪した孫策王朗儒学教養豊かで、謙虚な人物であったため処刑せずに許した。このとき孫策会稽太守自称し王朗配下虞翻招聘仕えさせた。

※この「会稽郡攻略」の解説は、「孫策の江東平定」の解説の一部です。
「会稽郡攻略」を含む「孫策の江東平定」の記事については、「孫策の江東平定」の概要を参照ください。

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