会稽太守として
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王朗の『家伝』によると、当時の会稽には秦の始皇帝を古来より祭る風習があったが、始皇帝は徳のない君主だからという理由でこれを廃止させている。会稽太守として勤務した4年間で、民を慈しんだという。またこの時期、友人の許靖が庇護を求め王朗の下を訪れ、身を寄せている。 建安元年(196年)、劉繇を破った孫策が、会稽に進出して来た。功曹の虞翻が逃亡を進言したが、王朗はこれを却下し、元の丹陽太守の周昕の協力も得て、固陵で孫策の進撃を防いだ。「孫静伝」によると、王朗は固く守って孫策を苦戦させたが、孫静の策によって査瀆に誘き出されると、孫策軍に大敗した。また周昕は斬られた。 王朗は城を放棄し船で東冶に逃れたが、孫策が追撃をかけてきたため、さらに大敗した。このためついに王朗は孫策に投降し、降伏が遅れたことを素直に謝罪した。孫策も王朗が儒学教養豊かで、謙虚な人物であったため処刑せずに許した。その後は一族を抱え困窮したが、道義に基づく行為はきちんと行なった。
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会稽太守として
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王朗の『家伝』によると、当時の会稽には秦の始皇帝を古来より祭る風習があったが、始皇帝は徳のない君主だからという理由でこれを廃止させている。会稽太守として勤務した4年間で、民を慈しんだという。またこの時期、友人の許靖が庇護を求め王朗の下を訪れ、身を寄せている。 建安元年(196年)、劉繇を破った孫策が、会稽に進出して来た。功曹の虞翻が逃亡を進言したが、王朗はこれを却下し、元の丹陽太守の周昕の協力も得て、固陵で孫策の進撃を防いだ。「孫静伝」によると、王朗は固く守って孫策を苦戦させたが、孫静の策によって査瀆に誘き出されると、孫策軍に大敗した。また周昕は斬られた。 王朗は城を放棄し船で東冶に逃れたが、孫策が追撃をかけてきたため、さらに大敗した。このためついに王朗は孫策に投降し、降伏が遅れたことを素直に謝罪した。孫策も王朗が儒学教養豊かで、謙虚な人物であったため処刑せずに許した。その後は一族を抱え困窮したが、道義に基づく行為はきちんと行なった。
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