十日間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 14:12 UTC 版)
マデロ政権に反対するマヌエル・モンドラゴン (Manuel Mondragón) 将軍はトラルパンの軍事学校の士官候補生に反乱への参加を呼びかけた。2月9日(日)、士官候補生たちはメキシコシティの刑務所の前に集結し、フェリックス・ディアス将軍の釈放を要求した。短い協議の後に(司令官は殺された)ディアスは釈放された:234。次に彼らはサンティアゴ・トラテロルコ軍事刑務所に行き、レイェス将軍を釈放させた。午前7時30分、レイェスは士官候補生と兵士をともない、馬に乗って国立宮殿へ向かったが:235、銃撃を受けて落馬して死亡した。この最初の戦闘で400人の市民が死亡し、1000人以上が負傷した。軍司令官のラウロ・ビジャル将軍は銃弾で鎖骨が折れ、軍事大臣のアンヘル・ガルシア・ペーニャは腕を銃弾が貫通した:284。 現場から3マイル離れたチャプルテペク城に住んでいたマデロ大統領は、午前8時に報告を受け、馬に乗って町に入った。ビジャルとペーニャが負傷したため、当時休養中のビクトリアーノ・ウエルタ将軍が事に当たることを申し出、受理された:235。ウエルタは首都軍の司令官に任命された。 フェリックス・ディアス将軍はレイェスの死の知らせを聞いてアメリカ大使ヘンリー・レーン・ウィルソンに連絡を取った。ディアスはレイェスより上手に立ちまわり、国立宮殿から数ブロック離れた町の造兵廠であるシウダデラにこもった。ここには充分な弾薬があり、反乱軍は国立宮殿へ向けて砲撃を開始した:119。 同日夕刻、マデロは隣のモレロス州の州都であるクエルナバカへ行き、当時サパタ軍と戦っていたフェリペ・アンヘレス将軍と会談した。その夜マデロとアンヘレスは鉄道を使って武器や弾薬を積んで首都に戻った。翌朝までにマデロは1000人の兵士を集めた。 2月10日(月)には大きな動きはなかった。マデロはアウレリアーノ・ブランケット (Aureliano Blanquet) 将軍に1200人のトルーカの軍を国立宮殿に派遣するように電報を打った。マデロはまたアンヘレスが首都軍の司令官になることを求めたが、まだ議会によって将軍に任命されていないことを理由に反対された。元の臨時大統領フランシスコ・レオン・デ・ラ・バーラは大統領と反乱側の仲介を申し出たがマデロは拒絶した:119。 2月11日(火)の午前10時ごろウエルタは造兵廠の砲撃をはじめたが、反乱軍は強く反撃し、国立宮殿と造兵廠の間の町は重い損害を被った。ウエルタはローマ地区でフェリックス・ディアスとひそかに会見し、この時にウエルタはクーデター支持にまわることを宣言した。これによってマデロ側の戦力は弱体化された。コアウイラ州知事のベヌスティアーノ・カランサはマデロにサルティーヨに逃げるよう申し出た:119-20。 2月12日(水)、ウィルソン大使は流血を引きおこした責任が反乱に対してさっさと降伏しないマデロにあると主張した。スペインも同意見であり、イギリス・ドイツも賛成した。これに対してオーストリア・日本・およびブラジル・チリ・キューバを含むすべてのラテンアメリカ諸国の代表は政府がその権威を保つことは正当であり、外国の外交官が内政に介入するのはお門違いだとした。ダウンタウンの砲撃は続き、兵士・馬・非戦闘員の死体は路上に放置され、食料は欠乏した:120。 2月15日(土)、ウィルソンはスペイン、イギリス、ドイツの大臣を大使館に招いた。スペインの大臣は国立宮殿を訪れて大統領が辞任すべきだというのが彼らの統一した意見であると伝えた。マデロは外交官が内政に介入することは認められていないと答えた。同日ウィルソンはドイツの大臣とともに休戦交渉のために国立宮殿を訪れた。ウィルソンは大使館員を造兵廠に送り、日曜日の休戦についてディアスの了承を得た。 2月16日(日)ブランケット将軍の軍が首都に到達したが、彼は戦おうとしなかった。この日は休戦し、路上の死体を埋葬し、非戦闘員を危険地帯から非難させた。ウィルソンが国務省に送ったレポートでは、婉曲な表現で「ウエルタが私のもとに特別な使者を派遣した。それによればウエルタは今晩事態を終結させるための対策を取るつもりだという」と述べている。原因は明らかでないが、その計画は実行されなかった。しかしウエルタからは別の使者が送られ、ウィルソンが国務長官フィランダー・ノックス(英語版)に送ったレポートではより自信をもってマデロが排除されるであろうことを述べている。 2月18日(火)正午、マデロ大統領の弟であるグスタボ・A・マデロ(英語版)がガンブリヌス・レストランで逮捕された。マデロ大統領本人の逮捕は約1時間後に起きた。その夜アメリカ大使館でディアス、ウエルタ、ウィルソンは今後について会談した。ディアスとウエルタはどちらも自分が大統領になるべきだと主張して譲らなかったが、ウィルソンの努力で妥協が成立し、ウエルタがまず臨時大統領に就任した後、10月に選挙を行い、その時にディアスを支持することとした。その夜、グスタボ・A・マデロは銃殺された:312-13。 クーデターの指導者たちは、体制の変化の合法性を飾りたてるためにはマデロとスアレスの辞任が必要だと考えた。ふたりは辞任を承認したが、クーデター側にとって彼らが生きているだけで脅威だった。ウエルタはウィルソン大使に処置を相談したが、大使は「メキシコの福利にとって最善と思うことをなす」ようにと答えた:108。 マデロとスアレスは鉄道でベラクルスへ行き、そこからキューバの砲艦に乗って外国に亡命する予定になっていたが、時間になっても彼らは駅に現れなかった。翌日、ウエルタはマデロとスアレスがメキシコシティの中央刑務所に送られたことを発表した。
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