劉粲撃破
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当初、漢帝劉聡は将軍趙固に洛陽を守らせていたが、長史周振は趙固と対立した事により、密かに趙固を讒言するような上奏をしていた。その為、劉聡は劉暢へ向け、李矩を討伐した後に洛陽へ向かい、趙固を処断した上で周振をその後任とするよう命じていた。李矩は劉暢を破った際、彼の陣営からこの件に関する書簡を手に入れた。8月、李矩はこの書を趙固の下へ送った。すると、趙固は周振とその子を処断し、千の騎兵を率いて李矩に帰順した。李矩は彼に引き続き洛陽を守らせた。 12月、趙固・郭黙は漢領である河東へ侵攻し、絳まで到達したが、漢将劉勲に敗れて1万人余りが討ち取られ、撤退した。 318年3月、漢の皇太子劉粲は将軍劉雅を始め歩騎10万を率いて趙固討伐に向かった。劉粲は小平津の北岸に駐屯し、劉雅に兵を分け与えて洛陽を攻撃させた。趙固は抗しきれずに陽城山に逃亡すると、弟を派遣して李矩に救援を要請した。李矩はこれに応じ、郭黙・郭誦を派遣して洛口に駐屯させた。郭誦は配下の将軍張皮・耿稚に命じ、精鋭千人を選んで夜のうちに黄河を渡らせた。劉粲の斥候は敵軍の到来を報じたが、劉粲は敵軍を侮って備えをしなかった。張皮・耿稚らが十道より同時に攻勢を掛けると、劉粲の兵は驚愕して逃潰し、耿稚らはその大半を殺傷して陣営を奪い取り、数え切れぬ程の軍需物資を鹵獲した。これにより、劉粲は陽郷まで撤退した、 夜が明けると、劉粲は耿稚らの兵数が少ないことを見て、劉雅と共に残兵を率いて攻撃し、さらに劉聡は太尉范隆に騎兵を与えて加勢させた。耿稚らは20日余りに渡ってこれを阻み、大いに苦戦したが決して降伏しなかった。李矩は自ら出撃して救援に向かい、船を浮かべて勇士三千に河を渡らせようとしたが、漢軍は黄河に臨んで陣営を連ね、長鉤をもって船を引き寄せようとしたので、数日連戦したが渡河する事が出来なかった。その為、李矩は夜を待って配下の格増を密かに張皮らの陣営へ派遣し、格増と張皮らは千の騎兵を率いて奪い取った牛馬を殺して物資を焼き払うと、包囲を突破して虎牢へ向かった。劉聡はこれを追撃させたが間に合わず、止む無く撤退した。この一件で劉聡は激怒するあまり発病し、亡くなったという。 東晋元帝(司馬睿)は李矩の功績を称え、都督河南三郡諸軍事・安西将軍・滎陽郡太守に任じ、修武県侯に封じた。その後、さらに都督司州諸軍事・司州刺史に昇進し、平陽県侯に改封された。また、将軍号については以前のままとした。 8月、漢の大将軍靳準が反乱を起こして劉粲を始めとした皇族を虐殺し、使者を李矩の下へ派遣して「劉元海(劉淵。元海は字)はもともと屠各(匈奴の種族)の小人に過ぎず、大晋の事故に乗じて幽・并の地に乱を起こし、天命と偽って二帝を虜庭(蛮族の地)に幽没させました。故に衆を率いて梓宮(天子の墓)を扶侍し、上聞を請うものです」と告げた。李矩は司馬睿にこれを急報すると、司馬睿は太常韓胤らを派遣して梓宮の奉迎にあたらせたが、その到着前に靳準は石勒・劉曜によって滅ぼされた。李矩は力が弱く功を立てられなかった事を、これ以降いつも慷慨したという。 李矩は上表し、郭誦を揚武将軍・陽翟県令に任じた。また、河を阻むように砦を築いて耕作をしながら守りを固め、賊を滅ぼす為の長期的な計を立てた。
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