劉粲撃破とは? わかりやすく解説

劉粲撃破

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 08:48 UTC 版)

李矩」の記事における「劉粲撃破」の解説

当初、漢帝劉聡将軍趙固洛陽を守らせていたが、長史周振は趙固対立した事により、密かに趙固讒言するような上奏をしていた。その為、劉聡劉暢へ向け、李矩討伐した後に洛陽へ向かい趙固処断した上で周振をその後任とするよう命じていた。李矩劉暢破った際、彼の陣営からこの件に関する書簡手に入れた8月李矩はこの書を趙固の下へ送った。すると、趙固は周振とその子処断し、千の騎兵率いて李矩帰順した李矩彼に引き続き洛陽を守らせた。 12月趙固郭黙は漢領である河東侵攻し、絳まで到達したが、漢将劉勲敗れて1万余り討ち取られ撤退した318年3月、漢の皇太子劉粲将軍劉雅始め歩騎10万率いて趙固討伐向かった劉粲小平津の北岸駐屯し劉雅に兵を分け与えて洛陽を攻撃させた。趙固抗しきれずに陽城山に逃亡すると、弟を派遣して李矩救援要請した李矩はこれに応じ郭黙郭誦派遣して洛口に駐屯させた。郭誦配下将軍張皮・耿稚に命じ精鋭千人選んで夜のうちに黄河を渡らせた。劉粲斥候敵軍到来報じたが、劉粲敵軍侮って備えをしなかった。張皮・耿稚らが十道より同時に攻勢掛けると、劉粲の兵は驚愕して逃潰し、耿稚らはその大半殺傷し陣営奪い取り数え切れぬ程の軍需物資鹵獲した。これにより、劉粲は陽郷まで撤退した、 夜が明けると、劉粲は耿稚らの兵数少ないことを見て劉雅と共に残兵率いて攻撃し、さらに劉聡太尉范隆に騎兵与えて加勢させた。耿稚らは20日余りに渡ってこれを阻み大い苦戦した決し降伏しなかった。李矩は自ら出撃して救援向かい、船を浮かべて勇士三千に河を渡らせようとしたが、漢軍は黄河臨んで陣営連ね、長鉤をもって船を引き寄せようとしたので、数日連戦したが渡河する事が出来なかった。その為、李矩は夜を待って配下の格増を密かに張皮らの陣営派遣し、格増と張皮らは千の騎兵率いて奪い取った牛馬殺して物資焼き払うと、包囲突破して虎牢向かった劉聡はこれを追撃させたが間に合わず、止む無く撤退した。この一件劉聡激怒するあまり発病し亡くなったという。 東晋元帝司馬睿)は李矩功績称え都督河南三郡諸軍事・安西将軍滎陽郡太守任じ修武県侯に封じたその後、さらに都督司州諸軍事・司州刺史昇進し平陽県侯に改封された。また、将軍号については以前のままとした。 8月、漢の大将軍靳準反乱起こして劉粲始めとした皇族虐殺し使者李矩の下へ派遣して劉元海劉淵元海は字)はもともと屠各(匈奴種族)の小人過ぎず、大晋の事故乗じて幽・并の地に乱を起こし天命偽って二帝を庭(蛮族の地)に幽没させました故に衆を率いて梓宮天子の墓)を扶侍し、上聞請うものです」と告げた李矩司馬睿にこれを急報すると、司馬睿太常韓胤らを派遣して梓宮奉迎にあたらせたが、その到着前に靳準石勒劉曜によって滅ぼされた。李矩は力が弱く功を立てられなかった事を、これ以降いつも慷慨したという。 李矩上表し、郭誦を揚武将軍・陽翟県令に任じたまた、河を阻むように砦を築いて耕作しながら守り固め、賊を滅ぼす為の長期的な計を立てた

※この「劉粲撃破」の解説は、「李矩」の解説の一部です。
「劉粲撃破」を含む「李矩」の記事については、「李矩」の概要を参照ください。

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