劉知幾の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 13:58 UTC 版)
「劉知幾」も参照 劉知幾(字は子玄)は、龍朔元年(661年)に劉蔵器の第五子として生まれた。11歳の頃には『尚書』の学習が身に入らず、代わりに兄たちが習っていた『春秋左氏伝』にのめり込むなど早くから歴史書に興味を持ち、そのまま『史記』『漢書』『三国志』などの学習に進んだ。20歳で科挙に合格すると、河南の獲嘉県の主簿になり、そのまま18年間務めた。聖暦2年(699年)に右補闕・定王府倉曹に転任し『三教珠英(中国語版)』の編纂に参加した。 則天武后の長安2年(702年)、劉知幾41歳の時に著作左郎に転任し、武三思のもとで徐堅・呉兢(中国語版)らとともに国史編纂に当たった。中宗の神龍年間には、『重修則天実録』の編修に参加した。そして神龍2年(706年)、東都の守司となり、閑職であることを利用して『史通』の執筆に当たった。そのまま数年間執筆を続け、景龍4年(710年)に『史通』が完成したとされる。 その後も劉知幾は玄宗の先天元年(711年)に柳沖(中国語版)とともに『氏族志』の改修に当たり、翌年の開元元年には『氏族系録』を完成させる。さらに開元4年には呉兢とともに『則天実録』『中宗実録』『睿宗実録』を完成させるなど、歴史叙述に携わり続けた。
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