鮮于輔とは? わかりやすく解説

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鮮于輔Xianyu Fu

センウホ

(?~?)
魏輔国将軍・督幽州特進南昌

漁陽の人。劉虞従事

初平四年(一九三)十月大司馬劉虞公孫瓚殺された《後漢書献帝紀》。従事である鮮于輔・斉周騎都尉鮮于銀らは幽州兵を糾合して公孫瓚報復しようとした燕国閻柔かねてより恩愛信義持ち主であったので、鮮于輔らはこれを擁立して烏丸司馬にした。閻柔漢人胡人合わせて数万人を招致し潞県北方において公孫瓚任命した漁陽太守鄒丹戦い、これを大破鄒丹以下、四千人余り首級挙げた公孫瓚伝・後漢書同伝》。

烏丸蘇僕延劉虞恩徳心服していたので、烏丸族および鮮卑族の七千騎余り率い、鮮于輔とともに南進して劉虞の子劉和迎え入れ袁紹の将麴義合流し合計十万人の軍勢一斉に公孫瓚攻撃した興平二年(一九五)、公孫瓚丘で大敗して易京に引き籠もった《公孫瓚伝・後漢書同伝》。

公孫瓚敗死したのち、鮮于輔は国人推戴され太守職務代行することになり、日ごろ親しかった田予長史任じた田予が「最終的に天下平定できるのは曹氏違いありません。速やかに帰順し災禍遭われることのございませんように」と勧めたので、鮮于輔はその計略聞き入れた田予伝》。鮮于輔は配下軍勢率いて曹操帰服し、建忠将軍任じられて都亭侯に封ぜられ、幽州六郡の督となった閻柔もまた護烏桓校尉任じられ関内侯に封ぜられた《公孫瓚伝・後漢書同伝》。

胡三省は鮮于輔が漁陽太守鄒丹を斬ってその後になっていたと推測する公孫瓚集解》。鮮于輔は曹操帰服した時点度遼将軍任じられたともあるが《後漢書公孫瓚伝》、おそらく誤りだろう。

鮮于輔はみずから曹操のもとへ参詣し官渡の戦い従軍した曹操袁紹軍潰走喜び、鮮于輔の方を振り向きながら「先年本初袁紹)が公孫瓚の首を送ってきたとき、孤(わたし)は呆然としてしまったものだ。こたびの勝利天意のみならず諸君尽力賜物なのだ」と言った公孫瓚伝》。鮮于輔は右度遼将軍拝命して亭侯に封ぜられ、帰還し本国鎮撫せよと命じられた《公孫瓚伝・後漢書同伝》。

『三国志』度遼将軍・亭侯、『後漢書』では度遼将軍・都亭侯、『通鑑』では右度遼将軍とする。胡三省は本来の赴任地である西河郡ではなく幽州駐屯したから右度遼将軍なのだと説明する集解》。これに従う。封地は昌郷亭だろうかまた、鮮于輔が曹操のもとへ参詣して将軍任命受けたとの記述は二ヶ所あるが《公孫瓚伝》、両者時期あまりに近くそのうち後者烏丸征討従軍する以前こととするのは史書誤りなのかも知れない

建安十年二〇五)夏四月、三郡の烏丸獷平において鮮于輔を攻撃した八月曹操がこれを征討し、鮮于輔・閻柔もまた手勢率いて従軍すると、烏丸らは塞(万里長城)の彼方へ逃走した武帝紀・公孫瓚伝》。

十八五月天子曹操魏公封じようとしたが、曹操は三たび辞退した。鮮于輔は中軍荀攸とともに拝受するようにと勧めた。このとき鮮于輔は度遼将軍・昌郷亭侯である《武帝紀・同集解》。

武帝紀』には建忠将軍・昌郷亭侯とあり、『集解』は「魏公卿上尊号奏碑」に従って虎牙将軍南昌亭侯にすべきというが《公孫瓚集解》、曹操魏公になったあとも鮮于輔は度遼将軍として見えており《徐邈伝》、また「魏公卿上尊号奏碑」は延康年間官爵示したものであって両説いずれも誤りであろう思われる。ここでは爵位を『武帝紀』に従い将軍号以前のまま度遼将軍であった見なす

尚書郎徐邈禁酒令破って泥酔し、「聖人ぶつかった」と発言したため、曹操はひどく腹を立てた度遼将軍鮮于輔が進みでて「酒呑みどもは日ごろ清酒聖人濁酒賢人呼んでおります徐邈はもともと慎み深い性格なのですが、酔っぱらって失言してしまっただけでしょう」と取りなしたので、違法判断されたものの処罰免れた徐邈伝》。

延康元年二二〇)十一月虎牙将軍南昌亭侯であった鮮于輔を含む四十六人は、魏王曹丕漢朝からの禅譲拝受し帝位登るように勧めた文帝紀・同集解》。曹丕はこれを受けて践祚し、鮮于輔・閻柔はともに爵位を県侯に勧められ特進の位を賜った公孫瓚伝》。鮮于輔は詔勅奉じて蜀へ下向し、三つ好条件示して劉備帰服せよと伝えたが、劉備聞き入れなかった《後主伝》。

黄初五年(二二四)、鮮卑族軻比能と素利・歩度根とは仲が悪かったが、護烏桓校尉田予は素利を支援して軻比能攻撃したので、軻比能は輔国将軍鮮于輔に手紙送り、「歩度根らは我(わたし)の弟を殺したくせに、我が略奪働いた誣告ます。将軍よ、どうか天子に対して我のことを保証してくだされ」と訴えた。鮮于輔が手紙受け取ってそれを報告すると、帝は田予に(彼らを)招かせて慰撫することにした《鮮卑伝》。

参照袁紹 / 閻柔 / 軻比能 / 麴義 / 公孫瓚 / 荀攸 / 徐邈 / 鄒丹 / 斉周 / 鮮于銀 / 素利 / 蘇僕延 / 曹操 / 曹丕 / 田予 / 歩度根 / 劉協天子) / 劉虞 / 劉備 / 劉和 / 易京 / 燕国 / 漢 / 官渡 / 魏 / 獷平県 / 漁陽郡 / 塞 / 昌郷亭 / 蜀 / 南昌県? / 南昌亭 / 丘 / 幽州 / 潞県 / 右度遼将軍 / 王 / 関内侯 / 騎都尉 / 建忠将軍 / 公 / 護烏桓校尉 / 護烏桓司馬烏丸司馬) / 従事 / 尚書郎 / 大司馬 / 太守 / 中軍師 / 長史 / 亭侯 / 督 / 特進 / 都亭侯 / 輔国将軍 / 烏桓族 / 賢人 / 行事職務代行) / 聖人 / 鮮卑族


鮮于輔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/02 01:35 UTC 版)

鮮于 輔(せんう ほ、生没年不詳)は、中国後漢時代末期から三国時代にかけてのの軍人、政治家。幽州漁陽郡の人。


  1. ^ 三国志』魏書公孫瓚伝による。同魏書武帝紀によれば、曹操の魏公推戴時には建忠将軍・昌郷亭侯となっている。一方『後漢書』公孫瓚列伝では、帰順時に度遼将軍・都亭侯へ任じられたとある。
  2. ^ 『後漢書』公孫瓚伝
  3. ^ 渡邉義浩 「魏公卿上尊号奏」にみる漢魏革命の正統性 2022-02-04閲覧


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