公孫瓚への復仇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:15 UTC 版)
最初は劉虞に仕え、その従事となっていたが、初平4年(193年)に劉虞が公孫瓚に殺害されてしまう。鮮于輔は劉虞の仇を討とうと、同僚で従事の斉周や騎都尉の鮮于銀と共に、閻柔を烏桓司馬に擁立して、漢族・北方民族合わせて数万の軍勢を集めた。閻柔・鮮于輔らは公孫瓚軍の漁陽太守鄒丹を攻撃し、これを大破して鄒丹以下四千人余りの首級を挙げた。 更に、劉虞を慕っていた烏桓の蘇僕延、袁紹の下に逃れていた劉虞の子劉和、袁紹軍の麴義らと合流し、合計十万の軍勢で公孫瓚を攻撃して幾度か撃破し、建安4年(199年)にこれを滅ぼす上で大きく貢献した。
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