公孫淵の征討とは? わかりやすく解説

公孫淵の征討

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 19:07 UTC 版)

司馬懿」の記事における「公孫淵の征討」の解説

詳細は「遼隧の戦い」を参照 景初2年238年)、遼東拠っていた公孫淵反乱起こし司馬懿征討命じられる。このとき皇帝曹叡は、公孫淵どのような策を取るか司馬懿尋ねた司馬懿は「往路100日、復路100日、戦闘100日、その他休養などに60日を当てるとして、1年もあれば充分でしょう」と答え、「(公孫淵が)城を捨てて逃げるが上策遼水拠って我が大軍抗するは次策、襄平に籠もるなら生捕りになるだけです。(公孫淵が)知恵者ならば、城を捨てることも有るでしょうが、公孫淵はそんな策を考えつける人物ではありません」と答えた司馬懿毌丘倹胡遵とともに公孫淵討伐出発した司馬懿遼東到着したころ、遼東では長雨続いていたため、遠征はさらに長引くおそれがあった。廷臣たちは遠征中止曹叡訴えたが、曹叡は「司馬公は機に応じて戦略立てることのできる人物だ。彼に任せておけば間違いはない」と言い取り合わなかった。 魏の征討対し公孫淵は呉に援軍求めた孫権使者殺害しようとしたが、配下羊衜は恩を売った方が得策進言した。そこで孫権は、「司馬公は用兵優れ自在に使うこと神の如しという。そんな人物相手せねばならないとは、あなたもお気の毒だ」と書簡を送りつつも、援軍約束した司馬懿野戦公孫淵派遣した軍勢破り公孫淵籠城した。公孫淵軍は兵は多く食料少なかった司馬懿はこれを想定しており「兵力多く兵站確保難しときにはある程度犠牲出ようとも速戦でかたをつけるべきで、逆に兵力少なく兵站安定している場合には持久戦を行うのがよい」と語った司馬懿思惑通り公孫淵軍の食料は底をついた。公孫淵使者送り人質差し出して和議助命嘆願した司馬懿はこれに対し次のように弁舌拒絶した。 「戦には五つ要点がある。戦意があるときに闘い戦えなければ守り守れなければ逃げる。あとは降るか死ぬかだ。お前達降伏しようともしなかったな。ならば残るは死あるのみ。人質など無用である。」 公孫淵は子の公孫脩とともに数百騎の騎兵隊率いて包囲突破して逃亡したが、司馬懿追撃して公孫淵親子斬り殺した。城は陥落し司馬懿公孫淵高官たちを斬り、遼東制圧成功するが、更にその後処置苛烈極めるものであった中原戦乱から避難してきた人々大量に暮らしていた遼東は、いつまた反魏の温床なるかわからないということで、司馬懿15歳上の男子を数千人(一説7000人ほど)殺し京観築いたという。司馬懿曹叡述べたとおり、1年公孫氏滅ぼした。しかし、戦後処理で残虐な行為があったことは後世批判となった唐代編纂された『晋書』は、「王朝始祖たる人物が、徒に大量の血を流したことが、ひいては子々孫々報いとなって降りかかったのだ」と批判している。 呉は援軍送ったものの、既に公孫淵父子敗死した後だったとして、遼東略奪して引き上げている。 なお、公孫淵滅亡によって朝鮮半島北部が魏に押さえられたために、邪馬台国卑弥呼が魏に使者派遣するようになり、司馬懿はこれを自らの徳として誇り厚遇したという説もある。

※この「公孫淵の征討」の解説は、「司馬懿」の解説の一部です。
「公孫淵の征討」を含む「司馬懿」の記事については、「司馬懿」の概要を参照ください。

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