公孫瓚との争いとは? わかりやすく解説

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公孫瓚との争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 21:24 UTC 版)

劉虞」の記事における「公孫瓚との争い」の解説

董卓長安遷都すると、劉虞朝廷への忠誠心を明らかにすべく、田疇鮮于銀使者として派遣した洛陽帰りたい考えていた献帝劉虞からの使者喜び侍中として朝廷にいた劉和劉虞の子)を劉虞のもとに派遣し自分迎えに来るよう命じようとした劉和南陽通過する途中袁術によって引きとめられた。袁術劉和に書かせた書簡劉虞に「兵を派遣してくれれば、私も一緒に西へ献帝迎えに)向かいます」と述べた公孫瓚袁術二心持っていることを見抜いていたため劉虞諌めたが、劉虞はそれに従わず劉和のもとへ数千騎兵派遣した。すると公孫瓚は、袁術にこのことを知られ恨まれるのを恐れ従弟公孫越袁術のもとに派遣し劉和逮捕して兵を奪い取るよう勧めた。この一件から、元より悪かった劉虞公孫瓚の仲はますます険悪になった。 公孫瓚袁紹とたびたび戦い敗れていたが、それでも袁紹攻めることをやめなかった。劉虞公孫瓚みだりに武力行使することを憂い次第兵糧支給削減した。これに怒った公孫瓚人民侵犯し劉虞異民族与えようとしていた物資略奪した劉虞もまたこれを怒り公孫瓚討伐ようとしたが、東曹掾の魏攸諌められ、思い留まった。 初平4年193年)、魏攸病死した。ここに至って劉虞怒り限界達し10月公孫瓚討伐すべく異民族などを糾合して10万余り大軍集めた。ところが公孫瓚との決戦前に従事程緒が「公孫瓚悪事過失明白だが、処罰名目立っておらず、また勝算見通し立っていない。ここは兵を留め攻撃せず、武威示せ公孫瓚降伏するでしょう」と進言する劉虞進言退け士気沮喪させたとして程緒斬首処したが、かえって軍勢混乱した。さらに従事公孫紀は、公孫瓚同族彼に厚遇されていたため、討伐作戦の詳細密告した公孫瓚はこれに対抗すべく、民衆を盾にして城に立て籠った。劉虞は「余人を傷つけないように、斬るのは公孫伯珪公孫瓚)ただ一人のみ」と指示し、そのため、劉虞軍勢は城を攻めあぐねた。その隙に公孫瓚劉虞の陣へ火攻め仕掛けて散々に討ち破り、ついに劉虞捕らえられてしまった。多く人民劉虞助命嘆願したが、公孫瓚市場劉虞を曳き回しにした上、「皇帝になれるほどの人物なら、天から降らせることができるであろう」と強引な要求をした。時は真夏最中だったが、結局が降らなかったため、劉虞処刑された。公孫瓚劉虞を「皇帝僭称ようとした賊」としてその首を都に送ったが、道中劉虞の元部下尾敦がそれを奪い、墓に葬った先に公孫瓚の命を狙って軍を動かしたのは劉虞であるが、公孫瓚劉虞処刑したことで立場悪くなり評判落とした加えて公孫瓚行為反発した烏桓造反繰り返したことにより北方情勢動揺した劉虞倹約質素信条とし、冠が破れて新しい物に変えず、その穴を繕って使い続けるほどであった。しかし彼の死後公孫瓚の兵がその家を捜索すると、妻妾質素とは程遠い美しく飾り立てた絹製の服を着ていた。人々はこれを聞いて劉虞本性疑ったという。

※この「公孫瓚との争い」の解説は、「劉虞」の解説の一部です。
「公孫瓚との争い」を含む「劉虞」の記事については、「劉虞」の概要を参照ください。

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