公孫氏による創設とは? わかりやすく解説

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公孫氏による創設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 04:49 UTC 版)

帯方郡」の記事における「公孫氏による創設」の解説

後漢の末、中平6年189年)に中国東北部遼東太守となった公孫度は、勢力拡大して自立強め後漢放棄した朝鮮半島進出現在の平壌付近から漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡支配下置いたその後継いだ嫡子公孫康は、楽浪郡18城の南半、屯有県(現・黄海北道黄州か)以南割いて帯方郡分置した。その正確な時期不明であるが早ければ建安9年204年)頃かともされる。これにより南方土着勢力韓・濊族討ち「是より後、倭・韓遂帯方属す」という朝鮮半島南半の統治体制を築く。郡治とは、その周囲数十県(城)の軍事政治・経済束ねる一大機構であり、個々の県治よりもひときわ大きな城塞都市であった公孫康ほどなく魏の曹操恭順し、その推薦によって後漢献帝から左将軍襄平侯に任ぜられ、帯方郡後漢の郡として追認された。 公孫康死後その子公孫淵が幼いために公孫康実弟公孫恭が後を継ぎ後漢献帝から禅譲受けた魏朝の文帝曹操の子曹丕)により、車騎将軍襄平侯に封じられた。しかし、太和2年228年成長した公孫康の子公孫淵叔父公孫恭の位を奪い取り、魏の曹叡明帝)からの承認取りつけて揚烈将軍遼東太守に任ぜられる。公孫淵は、祖父以上に自立志向強く、魏朝の仇敵である呉の孫権との同盟画策し最終的には、魏から受けた大司馬楽浪公の地位を不足とし、景初元年237年反旗を翻し独立宣言遼東襄平城で燕王を自称するにいたる。帯方郡楽浪郡そのまま燕に属した翌年238年)魏の太尉司馬懿率い四万の兵によって襄平城を囲まれ長期兵糧攻めにあって公孫淵その子公孫脩滅びる。これまで帯方郡は「後漢─魏─燕」と、形式的にはその所属変遷があったが、実質的一貫して公孫氏領有下にあり、韓や倭といった東夷からの朝貢公孫氏受け取っていたと思われる

※この「公孫氏による創設」の解説は、「帯方郡」の解説の一部です。
「公孫氏による創設」を含む「帯方郡」の記事については、「帯方郡」の概要を参照ください。

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