魏における活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:15 UTC 版)
公孫瓚滅亡後、鮮于輔は国人に推戴されてその旧領の統治を行い、公孫瓚の元配下である田豫を長史として抜擢した。後に曹操と袁紹の戦いで北方が混乱すると、田豫が鮮于輔に対し曹操への帰順を説いたため、鮮于輔もこれに従った。曹操は鮮于輔を建忠将軍に任命し、幽州6郡を統治させた。 建安10年(205年)4月、三郡の烏丸が獷平において鮮于輔を攻撃した。8月、曹操が鮮于輔を救援し、烏丸は塞外へ逃走した。 黄初元年(220年)に曹丕(文帝)が即位すると虎牙将軍に任命され、黄初5年(224年)頃には輔国将軍となった。 魏では、北方民族との交渉窓口役を務めていたのか、黄初5年頃に鮮卑の大人(酋長)軻比能との折衝に当たっている。その一方、黄初年間には曹丕の命令で、蜀漢の劉禅に内密の詔を送って投降を薦めていたとされる。徐邈が禁酒令を破って曹操に処罰されそうになった時は、これを弁護している。これらから見ても、鮮于輔は武官としての能力だけでなく、事務や折衝の能力にも秀でたものがあったのではないかと思われる。 また、小説『三国志演義』には登場しない。
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