義兵を挙げる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 22:36 UTC 版)
『後漢書』に伝のある韓韶や同時代の韓融(大鴻臚)の同族と推測されるが、続柄は明らかでない。 御史中丞を務めていたが、実権を掌握した董卓から冀州牧に任じられた(魏志「武帝紀」が引く『英雄記』)。その後、広平の沮授を別駕に任命し、騎都尉を兼任させた(魏志「袁紹伝」が引く『献帝紀』)。また、河間の張郃を司馬に任命した(魏志「張郃伝」)。 当時、渤海郡には董卓と対立し出奔していた袁紹が、太守として入っていた。韓馥は元々袁氏に仕えた役人であったが(魏志「袁紹伝」)、董卓の意向を忖度して従事を数人使い、袁紹を監視した(魏志「武帝紀」が引く『英雄記』)。 橋瑁は三公の公文書を偽造し、各国に配布して董卓の罪悪を述べ、諸侯の決起を促そうとした。韓馥が袁氏に付くか董卓に付くか迷ったが、従事の劉子恵は韓馥の弱気な態度を諌めると共に、真っ先に行動を起こさず「他に決起をする者が出たら、その時に同調すればよいだろう」と進言した。韓馥は渤海の袁紹に手紙を送り、董卓の悪事を伝えその挙兵を認めた(魏志「武帝紀」が引く『英雄記』)。 初平元年(190年)春正月、関東で反董卓の義兵が挙兵し、韓馥は諸侯の1人として参加した(魏志「武帝紀」)。このため董卓は韓馥らを推挙した周毖らを斬殺した(魏志「董卓伝」・蜀志「許靖伝」)。 同年2月、董卓が長安への遷都を決めたため、盟主である袁紹は河内に、韓馥も鄴に駐屯したが、董卓軍が強力であったため、敢えて行動を起こそうとはしなかった(魏志「武帝紀」)。
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