義光死後の最上家
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義光の死後、後を継いだ家親は元和3年(1617年)に急死した。家親の子・義俊(義光の孫)が後を継いだが、後継者をめぐって内紛が発生し幕府の仲介でも解決しなかったため、家中不届きであるとして、義光の死からわずか9年後の元和8年(1622年)に改易された(最上騒動)。義俊は近江大森藩1万石を与えられたが早世し、後を継いだ義智は幼少のため更に5,000石に減らされ、以後の最上家は交代寄合として明治維新を迎えた。最上家直系の末裔は現在関西地方に在住である。 また、義光の四男・山野辺義忠の家系は水戸藩家老として明治維新を迎えている。テレビ時代劇『水戸黄門』に登場する国家老・山野辺兵庫は、義忠の子・義堅であり、義光の孫にあたる。 大正13年(1924年)2月11日、宮内省より正四位を追贈された。昭和52年(1977年)、霞城公園内に「最上義光公勇戦の像」が作られ、平成元年(1989年)12月1日、最上家史料を展示し義光を顕彰する施設として、山形市によって最上義光歴史館が建設された。
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