銭璯の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 15:05 UTC 版)
310年2月、呉興出身の銭璯は、陳敏の乱に際しては義兵を挙げて討伐に貢献したので、司馬越より建武将軍に任じられて洛陽へ向かった。だが、広陵へ至った折に、漢の軍勢が洛陽に逼迫していると知り、恐れて進めなくなった。朝廷から軍期に従うよう促されると、銭璯は謀反を起こした。この時、尚書王敦もまた銭璯と共に洛陽へ向かっていたが、銭璯は王敦を殺そうとしたので、王敦は建康へ逃走して司馬睿に事態を告げた。銭璯は平西大将軍・八州都督を自称した。 銭璯が陽羡県へ侵攻すると、司馬睿は将軍郭逸・郡尉宋典らに討伐を命じたが、彼らは兵力が少なかった事から交戦しなかった。周玘は郷里の衆を纏め上げて義軍を興すと、郭逸らと合流した。そして軍を併せて共に進撃すると、銭璯を破ってその首級を挙げ、首を建康へ送った。 周玘は三度に渡って江南を平定したので、司馬睿はその功績を称え、周玘を行建威将軍・呉興郡太守に任じ、烏程県侯に封じた。
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