陳敏の乱とは? わかりやすく解説

陳敏の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 15:05 UTC 版)

周玘」の記事における「陳敏の乱」の解説

陳敏石冰討伐した功績により広陵相に任じられていたが、彼は自らの勇略頼みとして江東自立しよう目論んだ305年12月陳敏恵帝から詔を得た称して揚州において挙兵し公を自称した。彼は江南士族取り込もう躍起になり、周玘もまた安豊郡太守任じられ四品将軍加えられたが、彼は病と称してこれに応じなかった。陳敏刑法政治も明らかでなかったので、英俊名士誰も服従しなかったという。また、陳敏の子弟は凶暴であり、揚州には多く災い降りかかったので、周玘はこれを憂慮した。 306年2月譚は書面送って周玘顧栄らを説得すると、周玘らもまた元々陳敏討とう考えていたので、書を得た事により遂に決起した周玘はまず、密かに鎮東将軍劉準使者派遣してこの事態伝え、彼へ臨江出兵するよう命じと共に、自らが内応すると告げ、髪を切ってこれが偽りでない事を示した劉準はこの時寿春にいたが、周玘要請に応じて護衛彦に軍を与え東へ向かわせた。 当時陳敏の弟の陳昶は呉興出身の銭広を司馬としていた。銭広の家は長城にあり、周玘とは同郷であったので、周玘密かに銭広と内通すると、陳昶を殺すように仕向けた。銭広はこれに応じ配下何康派遣して陳昶が書を読んでいる最中斬り殺したまた、州内では既に陳敏殺した触れ回りって逆らうものは三族皆殺し処す告げ、さらに銭広を朱雀派遣しての南に布陣させ、陳敏襲来備えた。これに対して陳敏甘卓精鋭兵を尽く委ねて迎え討たせた。その為、周玘顧栄と共に甘卓の下へ赴くと、共に陳敏攻めるよう説得した。これにより甘卓遂に陳敏に背くことを決めた陳敏1万余りの兵を率いて西晋軍を迎え撃ったが、周玘らは以前松滋侯相紀瞻とも軍を併せ、共にこれを撃ち破ってその勢力潰滅させた。陳敏単騎北へ逃亡したが、江乗義兵捕らえられ建康で斬り殺された。その三族も皆殺しとなった東海王司馬越周玘名声聞き招聘掛けて参軍とし、今回功績により朝廷からは尚書郎・散騎郎を授かったが、いずれも受けなかった。 9月琅邪王司馬睿(後の元帝)が江東に出鎮すると、周玘は倉曹属に任じられた。

※この「陳敏の乱」の解説は、「周玘」の解説の一部です。
「陳敏の乱」を含む「周玘」の記事については、「周玘」の概要を参照ください。

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