陳敏を阻む
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/07 14:10 UTC 版)
305年末、右将軍陳敏が江南で決起して揚州を攻略すると、兵を率いて西上を目論んだ。劉弘は自らの南蛮校尉の職を解いて以前の北軍中候蒋超に与えると、江夏郡太守陶侃・武陵郡太守苗光らを統率させ、大軍を与えて夏口を守らせた。また、南平郡太守応詹を寧遠将軍とし、3郡の水軍を与えて蒋超の傘下に入るよう命じた。司馬顒もまた配下の張光を順陽郡太守に任じて陳敏討伐に当たらせた。 陶侃と陳敏は同郡出身であり、同じ年に官吏になった間柄であったので、隨郡の内史である扈懐は劉弘の面前で陶侃を讒言し「陶侃は陳敏と同郷の誼があり、郡太守の地位にあって強兵を統領しております。もし彼に異心があれば、荊州の東大門は既に失陥したも同じです。」と説いたが、劉弘は「陶侃は忠義に篤く実直であり、才知に長けている。我はずいぶん古くから彼の事をよく理解している。どうしてそのような考えを抱くというのか。」と言い、取り合わなかった。このことが陶侃の耳に入ると、直ちに子の陶洪と兄子の陶臻を劉弘の下に人質として送り、劉弘へ自らの忠誠を伝えた。だが、劉弘は彼らを参軍に任じると、恩賞を与えて陶侃の下へ返してやった。その去り際に「賢叔(陶侃のこと)は出征に出ており、祖母は高齢であるから、汝らは帰るべきだ。田舎の匹夫でも互いに付き合えば裏切らないというのに、ましてやそれが大丈夫であるならなおさらであろう。」と話した。 陳敏は陳恢を荊州刺史に任じて武昌を攻めさせると、劉弘は陶侃に前鋒督護を加えて諸軍と合わせて陳恢を迎撃させた。陶侃は陳恢に連勝し、さらに皮初・張光・苗光と共に陳敏配下の銭端を江夏郡境の長岐で破った。陳敏は結局最後まで荊州の国境を犯すことは出来なかった。 南陽郡太守衛展は劉弘へ「先の彭城王(司馬釈)が東へ逃走した時、義に背いた発言がありました。張光もまた太宰(司馬顒)の腹心であるので、これを斬って態度を明確になさるべきです」と進言したが、劉弘は「太宰の失政は張光の罪ではない。人を危めて自分の安全を求めるのは君子の成すことではない。」と言った。衛展はこれにより劉弘を恨んだという。劉弘は反乱鎮圧に貢献した張光の功績を称え、官位を昇格させるよう朝廷に上書した。
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