銭瓶石騒動とは? わかりやすく解説

銭瓶石騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/25 08:12 UTC 版)

銭瓶峠 (大分県)」の記事における「銭瓶石騒動」の解説

この石をめぐっては、江戸時代中期府内藩農民と、天領であった赤松村農民とが、府内藩幕府巻き込む境界争いをした記録残っている。府内藩ではこれを「銭瓶石騒動」と称した1762年宝暦11年3月幕府巡見使銭瓶峠を通るとのことで、銭瓶石から別府赤松までの道を整備をしていた府内藩の七蔵司村・田浦村農民と、同様に道を整備していた天領赤松村農民との間で、巡見使通行ルートに関する争いから、数十年来境界争い再燃した赤松村側は府内藩側にルート切り開き、自らが主張する村境土手築いて、これを新し境界にしようとした。さらに銭瓶石の近く高台小屋組み府内藩側の出方監視していた。府内藩民からの注進請け一度府内藩による仲裁が入るものの、物別れ終わった同年3月14日巡見使通過直前府内藩赤松村築いた土手壊して道路建設始めたその時赤松村側の30名が武器持って府内藩側の作業襲撃し、これを妨害、刀、鳶口鉄砲などで府内藩農民に傷を負わせ、更に府内藩奉行ら4人を赤松村松音寺現在の赤松公民館)に拉致・監禁する刃傷沙汰となった。この事件重く見た赤松村管轄する日田代官は、府内藩主・松平近形参勤交代江戸にいることから、幕府勘定奉行提訴府内藩側も応訴したので、議定所での裁判となった農民らが江戸まで出向して行われた裁判結果赤松村非があるとして、赤松村農民8名は伊豆三宅島終生遠島日田代官手代ら3名が御預の処分11名が入牢などの処分となった。なお、赤松村には、この八人顕彰した「遠島八人之塔」が建立されている。 また処分府内藩側にも及び、府内藩松平近形逼塞2か月家老ら7名の武士に御預の刑罰下った結果喧嘩両成敗となったものの、本来、被害者である府内藩側が藩主含めた処罰という、重い内容であった。 この事件の後日田代官所1767年西国筋郡代役所昇格改編となった

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