刃傷沙汰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 01:33 UTC 版)
1867年(慶応3年)、新両替町(銀座)の料亭に鳥取藩士武信久次郎を伴い入ったところ、先客の天童藩槍術師範中川俊造(中島一郎)、同剣術師範伊藤慎蔵と喧嘩になり、2人を斬った。2人ともほぼ即死であった。付近で夕餉の買物をしていた同門の秋山多吉郎と高山峰三郎が桃井に報告すると、桃井は「またやったか」と言ったことから、上田の刃傷沙汰はこれ以前にもあったと考えられている。上田と武信は形式的に入獄しただけで済んだが、武信はその後、帰藩の道中で天童藩士たちに討たれた。 1867年(慶応3年)12月、稽古納めを終えた上田ら士学館一行が市谷田町を歩いていると、巡回中の新徴組と出くわした。隊士たちが「道の片側に寄れ、もっと寄れ」と凄んだため、上田が怒ると、隊士たちが抜刀し、あわや斬り合いになりかけた。桃井が身分を明かし、ここにいるのは士学館の弟子であると言うと、新徴組が謝罪して喧嘩は収まった。
※この「刃傷沙汰」の解説は、「上田馬之助」の解説の一部です。
「刃傷沙汰」を含む「上田馬之助」の記事については、「上田馬之助」の概要を参照ください。
刃傷沙汰と同じ種類の言葉
- 刃傷沙汰のページへのリンク