殷・周
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殷朝では、殷王が有力都市連盟の盟主もしくはそれ以上の立場にあったとみられるが、それらの都市支配者に領域支配を認める形の制度になっていたのかは不明である。 周の時代には、封建制が成立し、各地に邑を基盤とした氏族共同体が広汎に現れ、周はこれらと実際に血縁関係をむすんだり、封建的な盟約によって擬制的に血縁関係をつくりだし、支配下に置いたと考えられている。 長子相続を根幹する体制を宗族制度といい、封建制度にも関連性がある。宗族制度は紀元前2千年紀前半に一般的となったとされている。
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殷・周
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紀元前15世紀の殷や、紀元前11世紀の周では、南方の海から入手したタカラガイの貝殻を貨幣としていた。このような貨幣を貝貨という。タカラガイは熱帯や亜熱帯の海で生息しており、殷にはベトナム方面で採取したものが運ばれていた。タカラガイを糸でつないだものを朋(中国語版)と呼び、王朝では儀礼における贈与や下賜など互酬の行為としてタカラガイを使ったとされる。また朋は物品の価値を示すためにも使われた。周時代にはタカラガイのほかに鼈甲などの亀甲が貨幣に使われた。現在、貨、財、販、買、貸、貴、賤、費、贈、賑といった漢字に貝が含まれるのは、当時貝貨が使われていたためとされる。貝貨は青銅貨が広まる春秋時代まで使われたとされ、雲南地方では中世においても流通した。 周の後期には礼制が改革され、賜与品はタカラガイに代わって官服・佩玉・旗・轡などになった。周王の権威の低下により、宗教的な品よりも実用品が求められたのが原因とされる。周代の後期に青銅器の大量生産が可能となり、需要の高い農具(銅鋤)や武器(銅剣・銅刀)が農民や兵士に普及した。青銅器それ自体の使用価値(実用性+呪術性+保存性)を担保に、物々交換の基準・物の価値を計る尺度として、青銅器が貨幣として使われるようになった。貝貨のタカラガイを模して骨や銅による倣製貝も作られ、西周ではタカラガイをかたどった青銅貨として銅貝(中国語版)も作られた。銅の重量を表す単位として寽(りつ)があり、青銅秤量貨幣(中国語版)の単位にも使われた。たとえば銅十寽を王の臣下が手当として受け取ったという記録があり、この銅の用途について臣下の特別報酬、裁判の罰金や手数料などの説がある。
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殷周
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古くは殷代の甲骨文にも蝗害の記録が見られる。 周代の詩篇『詩経』には「既方既皁、既堅既好。不稂不莠、去其螟螣。及其蟊賊、無害我田穉。田祖有神、秉畀炎火」とバッタの駆除の様子が詠われている。
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