蜀漢の建国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:12 UTC 版)
220年、曹丕が後漢を廃し、魏の皇帝となると、221年、劉備は対抗して漢の皇帝となった。諸葛亮らに蜀の法律である蜀科を制定させ、法制度を充実させた。さらに劉巴の提案に従い、新しい貨幣を作り、貨幣制度を整備した。益州は鉱物資源が豊富で塩を産出したため、劉備は塩と鉄の専売による利益を計り塩府校尉(司塩校尉)を設置し、塩と鉄の専売により国庫の収入を大幅に増加させた。 222年、荊州奪還と関羽の仇討ちのため呉を攻めるも、陸遜の前に大敗した(夷陵の戦い)。この際に蜀軍は馬良をはじめとした主だった将兵が戦死し、その軍事力は大いに衰え人材も失った。同年、劉備は孫権と和睦を結んだ。 223年、劉備は諸葛亮に後事を託して崩御。後に昭烈帝と諡された。劉備の亡き後は子の劉禅が後を継ぎ、諸葛亮が丞相として政務を執った。 その後、益州南部で雍闓・高定らが反乱を起こしたが、諸葛亮・李恢らは225年に益州南部四郡を征討して反乱を平定した(南征)。
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