蜀漢と正統論争とは? わかりやすく解説

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蜀漢と正統論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 01:20 UTC 版)

蜀漢」の記事における「蜀漢と正統論争」の解説

蜀漢三国のうちで最も国力の劣る国家であったが、後世起こった正統論争正閏論においてはその存在大きく注目された。 三つ王朝鼎立した三国時代であるが、陳寿『三国志』の中で曹操曹丕曹氏のみを皇帝として認め同時に皇帝称した劉備孫権列伝収録して形式上は彼らを魏の臣下として扱うなど、三国の内で魏のみを正式な王朝として扱った。ただ一方では「春秋の筆法」で以て蜀漢・呉もまた独立した王朝としての体裁持っていたことを記しその上で故国である蜀漢を呉とも差別し、その正統性窺わせる記述密かに盛り込んでいた。 東晋時代晋王朝中原を非漢民族王朝支配され江南逃れざるを得ない状況にあったまた、東晋弱体で、桓温桓玄父子劉裕によって禅譲狙われる状況にあった最終的に劉裕が宋を開き滅亡)。そこで禅譲否定するため、晋は魏からの禅譲によってではなく後漢を継ぐ蜀漢倒して初め成立したのだという主張生まれた。魏の正統性否定した結果蜀漢正式な王朝見なすいわゆる蜀漢正統論の起こりとなった習鑿歯の『漢晋春秋』や袁宏の『後漢紀』はそのような歴史観影響受けて成立した史料である。また『四庫提要』は『漢晋春秋』の蜀漢正統論を、中原曹魏追われ巴蜀のがれた蜀漢東晋現況重ね合わせことによるとしている。また、中村圭爾は『漢晋春秋』の蜀漢正統論を、魏の正統性否定することで魏から晋への禅譲の際に起きた事件における司馬氏行為正当化する例えば、高貴郷公殺害皇帝殺害ではなく蜀漢正統反す僭主殺害として扱われる意図があったとする。 なお非漢民族王朝では、匈奴劉淵が自らを漢王朝後継者位置づけ同時に劉禅諡号追贈劉備劉邦劉秀と共に祀るなど、やはり蜀漢を漢の後継であると見なしていた。 北宋成立した司馬光資治通鑑』はそれまで正史類を総攬する大書であるが、この中で魏・蜀漢・呉はいずれ正統王朝認められていない司馬光統一王朝のみを正統として扱っているからである。しかしその紀年には便宜上魏の元号用いており、消極的ではあるが魏の正統認め立場にあった。ところが南宋時代になると、再び蜀漢正統論は脚光を浴びる女真族の金によって南宋王朝東晋同様に江南追いやられてしまったからである。そんな中朱熹は『通鑑綱目』を編し、蜀漢正統性宣揚した。また南宋常や元の郝経などは『続後漢書』と称する『三国志』蜀漢正統論に基づいて再編集した史書著した。これらはいずれ蜀漢本紀立て曹操らの存在載記列伝へと追いやっている元末明初成立した小説『三国志演義』においては、『通鑑綱目』の思想歴史観大きく作用したため、蜀漢正統なる存在として物語上も明確に位置付けられている。そして清初『三国志演義』改編した毛宗崗もまたそれを継承して正統観を強く働かせ蜀漢正統とした上で、魏・呉を僭国であると断じている。ここに劉備善玉曹操悪玉とする三国志観は確立したと言える

※この「蜀漢と正統論争」の解説は、「蜀漢」の解説の一部です。
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