蜀平定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 06:13 UTC 版)
374年、蜀人の張育・楊光らが挙兵、苻堅に反旗を翻し、巴獠はこれに呼応した。苻堅は鄧羌を護羌校尉に任じ、5万の兵を与えて楊安と共にこれの討伐に当たらせた。 張育は蜀王と自称、東晋に使者を派遣して帰順を願い出ると、巴獠の長である張重・尹万と共に兵五万余で成都を包囲した。7月、張育は尹万と主導権争いを始め、遂に離反すると、兵を率いて相対峙した。鄧羌と楊安はこの隙を突いて攻撃を仕掛けた。攻勢に晒された張育と楊光は、綿竹まで軍を退いた。9月、鄧羌らは張重、尹万の軍と成都の南で戦闘を行い、首級二万三千を挙げる勝利を収め、張重を討ち取った。さらに鄧羌は張育、楊光と綿竹で戦闘を繰り広げ、彼らを斬り殺した。これによって益州は平定され、鄧羌はその功績を岷山に刻んで帰還した。
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