蜀征伐と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 14:48 UTC 版)
太和4年(230年)、洛陽に朝見して大司馬となり、帯剣したままの昇殿と、宮殿内で早足で歩かなくてもよいこと(当時の宮殿内では、皇族でも臣下は屈んで早足で歩かなければならなかった)を認められた。 大司馬となった曹真は曹叡に対し、蜀を征伐することの必要性を説き、これを認められた。同年8月、長安を出発し子午谷より蜀に攻め入った。この作戦は、荊州方面の司馬懿に漢水を遡って漢中の南鄭を攻撃させるなど、斜谷道や武威といったいくつかのルートから一斉に侵攻する大規模なものであったが、秋の長雨が30日続き、桟道が一部崩壊するなどしたため失敗した。曹叡は曹真に命令し撤退させた(子午の役)。 洛陽に戻った曹真は間もなく重病となり、曹叡が自ら見舞ったが病状は好転せず、翌年春3月に死去した。跡は子の曹爽が継いだ。 曹叡は生前の曹真が厚遇を受けた身でありながら、寛容かつ謙虚であったとして元侯の諡号を送った。 正始4年(243年)秋7月、曹芳(斉王)の時代に他の功臣らとともに曹操の霊廟前の広場に祭られた(『魏志』「斉王紀」)。
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