蜀を得る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 00:28 UTC 版)
許州舞陽県に生まれる。若い頃は屠殺や塩の密売に関わる無頼の徒であり、許州では賊王八と称されていた。 黄巣の乱が発生すると官軍に参加してその鎮圧に軍功を上げた。その後、朝廷の実力派宦官である田令孜の仮子(養子)となり、僖宗が蜀に脱出する際の功績により神策軍使、西川節度使、壁州刺史などを歴任した。 王建は在地勢力の歓心を買い、自らの陣営に取り込むことで勢力を拡大し、文徳元年(888年)には永平軍節度使に、大順2年(891年)には仮父を殺害して成都を制圧、更には剣南西川藩鎮を滅亡させ、西川を根拠地に定め、四川全域をほぼ掌握した。 天復元年(901年)に鳳翔の岐王李茂貞より漢中を奪い、天復2年(902年)には山南西道を手に入れ、天復3年(903年)には蜀王に封ぜられるに至った。
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