蜀への降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 21:54 UTC 版)
228年、蜀の諸葛亮が北伐にて接近した際、天水太守の馬遵とともにその偵察に赴いた。ところが各県の降伏を耳にした馬遵は、配下の梁緒(功曹)・尹賞(主簿)・梁虔(主記)・姜維(中郎)らが諸葛亮と内通しているのではないかと疑い、上邽に逃亡した。姜維らは彼を追ったが城内に入る事を許されなかった。このため冀県に戻ったが、そこでも受け入れてもらえなかったため、取り残された姜維らは行き場を失い、仕方なく蜀に降伏した。諸葛亮は街亭の戦いで敗北すると、西県の1000余家と姜維らを引き連れて成都に帰還した。そのため姜維はこれ以後、魏領に残った母と生き別れになった。諸葛亮は「姜維は仕事を忠実に勤め、思慮精密である。涼州で最高の人物だろう」と言い、また「姜維は用兵に秀で、度胸があり、兵の気持ちを深く理解している」などと評するほど、その才を高く評価し、倉曹掾・奉義将軍の官を与え、当陽亭侯に封じている。 裴松之が注で引用する孫盛の『雑記』によれば、姜維の母親が魏に戻るよう手紙を送ったが、姜維は蜀で栄達するという大望があるため戻らないと返事したとある。
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