蜀との戦い
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建安25年(220年)、曹操が死去した際には、曹丕により遺体を鄴に運び、葬儀を主催することを命じられた。 曹丕が魏王に即位し、献帝から皇位を禅譲され、魏の皇帝になった。軍事的には目立った行為はなく、親征を行う曹丕の留守を守り、後方支援の実務を行っていた。黄初6年(225年)、仮節・撫軍大将軍・録尚書事に叙せられ、五千人の兵権を与えられた。これは有力な将軍であった夏侯尚が病死したことによるものであったが、司馬懿に今まで任されていた後方支援の任務もそのままであった。司馬懿があまりに負担が大きいとして辞退すると、曹丕は「朕は日夜息つく暇も無い。君にこの仕事を任しているのは、何も君に栄誉を与えようと思っているわけではない、この負担を分け持ってもらいたいのだ。」と述べ、司馬懿は引き受けざるを得なくなった 黄初7年(226年)、曹丕が崩御し、その子の曹叡(明帝)が皇帝に即位した。曹丕が死ぬ際には曹真・陳羣・曹休と共に曹叡の補佐を託された。曹叡は母(文昭皇后甄氏)が誅殺されたことで長らく宮廷から遠ざけられており、臣下たちとはほとんど面識がなかった。このため、即位した曹叡は父の代からの重臣であった司馬懿や陳羣らを引き続き重用し、政事にあたらせた。同年、襄陽に侵攻した諸葛瑾・張覇らを徐晃らとともに破り、張覇を斬った。この功により驃騎大将軍に昇進し、曹真・曹休に次ぐ第三位の軍人となった。これ以降、司馬懿は宛城に駐屯し、魏の南部を守る役目に就いた。 太和2年(228年)、孟達が蜀漢の諸葛亮と内応して魏に叛いた。諸葛亮は孟達に司馬懿を警戒するよう伝えていたが、宛城から孟達の任地である上庸新城までは、通常の行軍で1ヶ月はかかる道程であり、孟達は十分対処できると考えていた。司馬懿は丁寧な書簡を送って孟達を迷わせた上で、昼夜兼行の進軍を強行し、わずか8日で上庸までたどり着いた。城を包囲された孟達は、同僚や部下に次々と離反された。司馬懿は攻城16日間で新城を陥落させ、孟達を斬首した。この電光石火の対処に諸葛亮ら蜀漢の中枢は動揺し、北伐の戦略は大きく狂うこととなった。 太和4年(230年)、大将軍に昇進した。 太和5年(231年)、蜀漢に対する戦線の総司令であった曹真が死んだ。司馬懿はその後任として張郃・郭淮らを従え、諸葛亮と対戦する。しかし司馬懿は積極的な攻撃を行わず、陣地に立てこもったままであった。不満を持った張郃らが司馬懿を非難したため、やむなく出撃させたが、張郃らはかえって大敗した。その後蜀漢軍は食糧不足により撤退した。この際、司馬懿は張郃に追撃させたが、高所に伏兵を置いた蜀軍に弓矢を乱射され、張郃は射殺された。なお、『晋書』宣帝紀によれば司馬懿は諸葛亮を追撃して大いに破ったとあるが、『三国志』には司馬懿が諸葛亮を破ったという記述はない(祁山の戦い)。 青龍2年(234年)、諸葛亮が5度目の北伐を敢行してきた(五丈原の戦い)。この戦いで司馬懿は郭淮・辛毗らと共に防衛に徹した。諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に亘って対陣するが病死し、蜀漢軍は撤退した。蜀漢軍が退却したのち、司馬懿はその陣跡を見るや「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたという。『漢晋春秋』によると、司馬懿は撤退する蜀漢軍に追撃をかけようとしたが、蜀漢軍が魏軍に再度攻撃する様子を示したので司馬懿は退却した。その事で人々は「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と言った。ある人がこの話を司馬懿に報告すると、司馬懿は「私は生者のする事は推し測れるが、死者のする事は推し測れない」と答えた。 青龍3年(235年)、蜀漢の馬岱が攻め込んで来たが、配下の牛金に命じて撃退させた。また、武都の氐王の苻双と強端を降伏させた。この年、司馬懿は三公の一つ太尉に就任し、魏の軍事面でのトップとなった。
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