蜀の政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:19 UTC 版)
蜀(蜀漢)の初代皇帝になる劉備は、諸葛亮らに蜀の法律である蜀科を制定させ、法制度を充実させた。蜀科は厳しい内容であったが、公平であったと言われている。 劉備は劉巴の提案に従い、五銖銭100枚の価値の貨幣を作り、貨幣制度を整備した。 益州は鉱物資源が豊富で塩を産出したため、劉備は塩と鉄の専売による利益を図り塩府校尉(司塩校尉)を設置し、塩と鉄の専売により国庫の収入を大幅に増加させた。王連は司塩校尉として多大な功績を挙げた。また、殖産興業に努め、絹(錦)の生産奨励と魏呉への輸出が行われた。 諸葛亮が益州南部の雍闓・高定らの反乱を平定した後、異民族の多い益州南部に租税を課した。 蜀漢は後漢の後継王朝という名目で成立したため、官制のほとんどは後漢に倣っていた。そのため宦官の専横を防ぐことができず衰退の一因となった。
※この「蜀の政治」の解説は、「三国時代 (中国)」の解説の一部です。
「蜀の政治」を含む「三国時代 (中国)」の記事については、「三国時代 (中国)」の概要を参照ください。
- 蜀の政治のページへのリンク