蜀との争いと諌諍とは? わかりやすく解説

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蜀との争いと諌諍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/11 03:40 UTC 版)

楊阜」の記事における「蜀との争いと諌諍」の解説

215年漢中討伐時に益州刺史遥任)となり、帰還後金城太守とされたが、その直後武都太守任命された。楊阜は、劉備統治する益州との国境に近い地域である事も考慮して、法の厳格な適用に拘らない統治心がけるよう要請した218年劉備軍張飛馬超下弁攻め込むと、氐族らもそれに呼応し反乱起こした曹操曹洪送り馬超達を退却させた。曹洪勝利を祝う宴会開き薄衣身に付け女性達舞楽を行なわせた。同席していた諸将笑い転げたが、楊阜だけが曹洪不行跡責めて退席した曹洪舞楽をやめさせ、楊阜に戻るよう願い出たため、その場厳粛となったという。 劉備漢中取り下弁に再び迫ると、曹操武都の地が遠方孤立しているため、住民京兆扶風天水移住させようとした。一万戸がこれに応じたが、これは楊阜それまで統治信頼勝ち得ていたからであった槐里城の西にある、小槐里城へ移住させた。 やがて、武都赴任すること十数年、漠然ながら下々の民に悪事を起こさせないように行政実施した曹丕文帝)は、劉曄などから武都太守評判いいこと聞いてこれを召し出そうとしたが、果たせぬまま急死した曹叡明帝)の代になると中央召され城門校尉となり、将作大匠少府昇進したその間曹叡に対して服装素行大規模な宮殿造営などの放漫な政治対し諫言上奏何度も行なった曹真蜀漢征伐しようとしたが、進軍できなくなった時には撤兵進言したため曹叡もそれに従った楊阜諫言は、曹叡にいつも聞き入れられた訳ではなかったが、楊阜忠義の心には曹叡それなりに心を動かされるものがあったという。 ある時、諫言何度も聞き入れられなかったため、官を辞退したところ、聴許得られない内に偶然死去したという。孫が後を継いだ。家には財産を遺さなかったという。

※この「蜀との争いと諌諍」の解説は、「楊阜」の解説の一部です。
「蜀との争いと諌諍」を含む「楊阜」の記事については、「楊阜」の概要を参照ください。

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