馬遵とは? わかりやすく解説

馬遵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/20 16:21 UTC 版)

馬 遵(ば じゅん、生没年不詳)は、中国三国時代の政治家。に仕えた。 『三国志書「姜維伝」が引く『魏略』にのみ記されている。姜維伝本文においては、名は明らかにされていない。

太和2年(228年)、蜀の諸葛亮北伐を開始し祁山に出兵すると、多くの諸県が蜀に呼応した(『魏書』「明帝紀」)。このとき天水太守だった馬遵は偶然巡察の途中だったが、住民が蜀に呼応することを恐れて郡の役所がある冀県に戻らず、上邽に逃亡した。この時随行していた属官の梁緒(功曹)・尹賞(主簿)・梁虔(主記)・姜維(中郎)らを置き去りにし、姜維らが追いかけてきても城門を閉ざし受け入れなかった。そのため姜維らは冀県に出向いたが、ここでも拒絶された。進退に窮した姜維らは止むなく蜀に降伏した。

「姜維伝」が引く『魏略』によると、馬遵の巡察は郭淮に従って移動していただけであり、諸葛亮の侵攻を聞いた郭淮が上邽への退避を決めたため、馬遵も冀県が西方に偏り過ぎていることを考え、それに従ったというものである。姜維が馬遵に冀県へ戻ることを勧めたが、馬遵は姜維らにむかって「私は諸君らが信用できない、みな逆賊だ」と罵った。このため、止むなく姜維らがそれぞれ勝手な行動をするようになり、姜維は郡吏[1]とともに冀県に帰還して、住民たちの勧めで諸葛亮に降ったという。

『魏書』「張既伝」が引く『魏略』によると、太和年間の北伐の際、天水太守と南安太守は郡を棄てて東に奔ったが、かつて張既に採り立てられた隴西太守の游楚だけは任地に留まり、蜀軍を防ぎきった。游楚が列侯に封じられる一方で、逃亡した天水太守と南安太守は重い刑罰に処せられたという。

小説『三国志演義』では、諸葛亮が攻めてきた時に配下の姜維の策で撃退する。しかし、諸葛亮の策にかかって姜維を疑い、姜維が蜀に降伏するきっかけを作っている。その後、蜀軍に攻められ夏侯楙と共に族の部落へ逃亡してしまう。

脚注

  1. ^ 上官子脩となっており、名前が明らかではない。子脩はと思われる。

馬遵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 21:42 UTC 版)

三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「馬遵」の解説

天水太守敗走した夏侯楙迎え入れ姜維と共に蜀軍迎えうった。しかし孔明の策にかかって姜維失い、また姜維の策によって天水落とされ夏侯楙と共に羌族の地へと落ち延びていった

※この「馬遵」の解説は、「三国志 (横山光輝の漫画)」の解説の一部です。
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