『三国志演義』において
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第二回、黄巾軍の残党の一味である韓忠が守る宛城を皇甫嵩と劉備が攻めている最中に、官軍側の援軍として手勢や義勇兵を率いて駆けつける。彼の容姿は「広い額、大きな顔、虎のごとき体、熊のごとき腰」という堂々たる威丈夫ぶりで描写されている。この時の孫堅はすでに海賊退治や許昌討伐において名を挙げ、下邳県の丞の職にあった。宛城を落とした際に南門攻撃を担当、敵将の趙弘を自ら討ち取るなどの功によって別部司馬に任ぜられる。後に区星の反乱を十常侍の密命により長沙太守として討伐し、烏程侯に封ぜられた。 第五回、『演義』において結成される反董卓連合軍に参加した諸侯の一人として登場。長沙太守という肩書きに、江東猛虎の二つ名、程普、韓当、黄蓋、祖茂ら四将を率いる陣容とともに、その姿は「白銀に光り輝く鎧を身に付け、赤頭巾を被り、腰には古錠刀をさげ、乗騎は斑のたてがみ」と語られている。董卓への先鋒として名乗りを上げ、初戦で胡軫を討ち取るなど活躍する。しかし、孫堅の活躍に嫉妬した袁術が兵糧を送らなかったために苦戦し、華雄に敗れて追い立てられる中で祖茂を失う。 第六回、孫堅は董卓の政略結婚による懐柔をそでにし、焼け落ちた洛陽の復興作業に着手して陵墓を塞ぐ。その最中、宮中の古井戸に身を投げた貴人の遺体から印璽を発見する。程普によって印璽が伝国璽だと判明すると、野心を胸に抱くようになり、発見した玉璽を隠匿する。その現場を目撃した者が袁紹に告げ口したので、孫堅は諸侯の前で釈明を求められる。孫堅はそこで「真実、私が玉璽を隠匿していたなら、命を全うすることなく戦禍によって死ぬ事になるだろう」と啖呵を切り、嘘をつき通したので、諸侯はその言葉を信用する。しかし、袁紹が証人を場に呼ぶと、孫堅は咄嗟に剣を抜き、切り捨てようとする。これら一連の行為によって分の悪くなった孫堅は、洛陽からいち早く陣を引き上げる。諸侯は疑心暗鬼に陥り、反董卓連合軍は解散。ますます疑いを深めた袁紹は、帰途にある孫堅を劉表に攻撃させ、玉璽を奪う事を画策する。 第七回、長沙に帰還を果たしたものの、劉表に帰還を妨害された孫堅は兵の大半を失い、劉表に恨みを抱く。些細な事で袁紹と不和になっていた袁術は、孫堅に劉表を攻撃させる事で、袁紹の力を削ぐ事を企て、孫堅に対して江夏攻略を命令する。この戦いにおいて孫堅は、黄祖の守る樊城を落とし、襄陽を包囲すると、囲みを解こうと出撃した蔡瑁にも圧勝する。その最中、包囲軍本陣の帥字旗がにわかに吹き起こった狂風で折れるという凶事が起こった。このため、韓当が「これは不吉の兆しなので退くべきでは」と進言する。しかし、孫堅は聞く耳を持たずに出陣し、蒯良の策謀で呂公がしかけた伏兵の罠にかかり、矢を射かけられ、落石に押し潰されて死亡した。その死体は劉表軍により持ち去られたが、捕虜となっていた黄祖の身柄と引き換えに、この時参陣していた孫策のもとに引き渡された。
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