『三国志演義』における李典とは? わかりやすく解説

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『三国志演義』における李典

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 15:19 UTC 版)

李典」の記事における「『三国志演義』における李典」の解説

小説『三国志演義』では曹操が反董卓の兵を募った時から仕えた呂布との戦い華北4州平定にも参加し黄巾黄邵生け捕るなど、 武将として早くから武功挙げた。 非常に慎重な性格であり、はやる上役抑えようとする役割が多い。濮陽城の呂布攻めた際には、危険であるから城外で待つよう曹操制止する。しかし曹操聞かず入城し陳宮術中はまって大火傷負った。また曹仁とともに新野にいる劉備攻撃した際にも、勝算なしとみて援軍要請し大軍であたること、樊城守備すべきとの慎重論主張し、功を急ぐ曹仁対立している。曹仁李典進言聞き入れず徐庶采配翻弄され樊城奪われた。 博望坡の戦いでは、夏侯惇諸葛亮計略かかって深追いしたが、後方にいた李典前方地形分析して火攻め用心するよう夏侯惇知らせた。しかしそれと同時に火の手上がり攻撃受けて大敗喫した長坂の戦いでは、張飛長坂焼き払ったことをいぶかしみ、諸葛亮の罠だと進言する曹操張飛には策略などないと断言して追撃命じるが、途中で伏兵関羽出会い驚いて撤退した。 以上のように、意見が通ることは少ないものの、冷静に敵状察知して助言をする副将として描かれている。 209年合肥の戦いでは、張遼副将として登場し40敵軍に対して呉の宋謙射殺したその後張遼楽進協力して太史慈致命傷を負わせている。 215年合肥の戦いでは、40敵軍に対して討って出よとの君命従おうとする張遼対し、彼と不仲李典押し黙ったままで賛成しなかった。しかし張遼叱咤されて決心し奇襲仕掛ける。小師破壊し張遼楽進と共に孫権軍撃退した216年濡須口の戦いでは、曹操40上の軍勢率いて呉に攻め李典徐盛敗れる。

※この「『三国志演義』における李典」の解説は、「李典」の解説の一部です。
「『三国志演義』における李典」を含む「李典」の記事については、「李典」の概要を参照ください。

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