『三国志演義』における李典
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小説『三国志演義』では、曹操が反董卓の兵を募った時から仕えた。呂布との戦いや華北4州平定にも参加し、黄巾の黄邵を生け捕るなど、 武将として早くから武功を挙げた。 非常に慎重な性格であり、はやる上役を抑えようとする役割が多い。濮陽城の呂布を攻めた際には、危険であるから城外で待つよう曹操を制止する。しかし曹操は聞かずに入城し、陳宮の術中にはまって大火傷を負った。また曹仁とともに新野にいる劉備を攻撃した際にも、勝算なしとみて援軍を要請し大軍であたること、樊城を守備すべきとの慎重論を主張し、功を急ぐ曹仁と対立している。曹仁は李典の進言を聞き入れず、徐庶の采配に翻弄されて樊城を奪われた。 博望坡の戦いでは、夏侯惇が諸葛亮の計略にかかって深追いしたが、後方にいた李典は前方の地形を分析して火攻めに用心するよう夏侯惇に知らせた。しかしそれと同時に火の手が上がり、攻撃を受けて大敗を喫した。 長坂の戦いでは、張飛が長坂橋を焼き払ったことをいぶかしみ、諸葛亮の罠だと進言する。曹操は張飛には策略などないと断言して再追撃を命じるが、途中で伏兵の関羽に出会い、驚いて撤退した。 以上のように、意見が通ることは少ないものの、冷静に敵状を察知して助言をする副将として描かれている。 209年の合肥の戦いでは、張遼の副将として登場し、40万の敵軍に対して呉の宋謙を射殺した。その後、張遼・楽進と協力して太史慈に致命傷を負わせている。 215年の合肥の戦いでは、40万の敵軍に対して討って出よとの君命に従おうとする張遼に対し、彼と不仲の李典は押し黙ったままで賛成しなかった。しかし張遼に叱咤されて決心し、奇襲を仕掛ける。小師橋を破壊し、張遼・楽進と共に孫権軍を撃退した。216年の濡須口の戦いでは、曹操が40万以上の軍勢を率いて呉に攻め、李典は徐盛に敗れる。
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