『三国志演義』における劉備
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詳細は「三国志演義の成立史#劉備」を参照 小説『三国志演義』は、黄巾の乱によって世が乱れる中、劉備が関羽、張飛と桃園の誓いを結び、義勇兵を起こす場面から始まる。 史書が伝える劉備が、その武勇と人気によって諸勢力に重んじられ、同時に警戒されたのに比べて、『演義』の中の劉備は、武勇を関羽、張飛をはじめとする武臣たち、知略を諸葛亮などの謀臣に預け、多様な個性を周囲に惹き付ける中心として位置している。しかも、若い時は母子で草鞋を作り行商し、吉川英治の小説『三国志』では当時庶民では高級品であったと言われる茶を母に飲ませるために金を貯めていたという苦労人として描かれている。ここから儒教の理想とする君子的高潔さが描かれ、これによって奸雄・曹操と対立軸を構成している。 『演義』の中の劉備は「双股剣」と「的盧」を愛用している。「双股剣」は、桃園の誓いで義兄弟の契りを果たしたあと、張世平と蘇双から贈られた軍用金の一部で鋳させた二本合わせの剣。吉川の小説では、「大小の二剣」と表記され、呂布との戦いで使用された。また同小説では先祖から伝わる剣を所持しており、旅先で黄巾族に襲われているところを救ってくれた張飛に対し礼としてこの剣を渡したが、旅先から戻りこれを知った劉備の母がひどく悲しんだとされている。この剣は張飛と再会し義兄弟の契りを交わした際に劉備の手に戻った。 『演義』では、呂布に追われている時に逃げ込んだ家の主人劉安は、劉備をもてなす食料がなかったので妻を殺害して、オオカミの肉と偽って、その肉を差し出し、そうとは知らず感激していた劉備だったが、顛末を知るやひどく悲嘆したという逸話が存在する(和訳本では削除されるか、価値観の違いについて注釈の上で紹介されている。また吉川の小説ではこの描写前に、中国と日本の文化の違いについて明記している)。『演義』では、蜀を奪ったあと、義兄弟である関羽を魏呉連合軍に殺され、その後に後漢が滅ぶ。諸葛亮を始めとする群臣が劉備に帝位に就くよう勧めるが、「そなた達は私を不義不忠の輩に仕立てる気か」と激昂する。即位後には部下が張飛を殺して呉に逃亡したことにより怒り狂い、義兄弟の敵討ちを大義名分として呉に向かう。その際に黄忠を老人扱いしたり、自軍が75万という大軍勢な上に呉軍の士気が低いのを見て傲慢になっていた。そこを突いた陸遜により大敗し白帝城へ落ち延び、まもなく後悔の念にさいなまれ病気になる。病の床で見た夢に現れた関羽と張飛から「遠くなく兄弟三人がまた集うことになるでしょう」と言われ、自らの死期を悟る。そして諸葛亮を呼び寄せ、後のことを託して世を去る。
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