『三国志演義』における華佗
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小説『三国志演義』では、第15回から登場する。董襲の提案と虞翻の仲立ちにより孫策の元に現れ、宣城にて孫権を救い出すため重傷を負った周泰を治療したり、斬殺した許貢の食客に襲われた孫策を治療したりしている。 また第75回では、曹仁との戦闘で毒矢の傷を受けた関羽を治療するため、荊州に自らの意思で出向き、右腕の肘の骨を削ってトリカブトの毒を除いている。この時、関羽は治療中には腕を柱に固定した方がよいとの華佗の提案を断り、酒を飲みながら平然と馬良を相手に碁を打っていたと描写されている。華佗は関羽の強靭さに大いに驚き、関羽もまた黄金百両の礼を申し出たが、華佗は「私がここに来たのは将軍の仁義を慕っての事」と告げ、それを断り去っていった。正史の「関羽伝」にも同様の逸話があるものの、治療した医者が華佗とは書かれていない。また実際の年代から言うと、この事件は既に華佗が没した後の、建安24年(219年)にあたる。 その後の第78回で、神木を切った後に頭痛に苦しむようになった曹操に召し出される。華佗は病根が脳中にあるため、薬の治療は効かないと診断し「まず麻肺湯を飲み、その後に斧をもって脳を切り開き、風涎を取り出して根を除きます」と治療法を告げる。このため曹操が華佗に対し「お前はわしを殺す気か」と怒るが、華佗は関羽が肘の骨を削られても動じなかった事を引合いに出す。しかし曹操は「脳を切り開く治療法など聞いた事がない。お前は関羽と親しかったな。治療を口実に関羽の仇討ちをしに来たか」とさらに怒り、華佗を投獄して拷問にかけた末に殺してしまう。この時、荀彧が既に死んでいたため、命乞いした人物は賈詡に代えられている。 華佗は医書である「青嚢書」 を残し、毎日華佗の世話をしていた呉という姓の獄吏(周囲から「呉押獄」と呼ばれている)に死の直前に渡している。しかし獄吏の妻は「たとえ華佗のように医術を極めても、結局は獄死するのでは何もならない」といい、夫の身を案じて焼き捨ててしまう。僅かに焼け残った箇所は、鶏や豚の去勢術などという有り様になっている。 華陀の手術については、『三国志』と『後漢書』に記載がある。彼は腹部を開いて患部を切除し、腹腔を洗浄し、切開部を縫合し、薬草の軟膏を塗って傷口の治癒を促した。また、麻沸散とよばれる粉末の麻酔薬を考案し、手術の前にブドウ酒とともに投与して、患者の意識を失わせたとある。その処方の詳細は現代に残っていないが、チョウセンアサガオ・アコニット根・シャクナゲ・ジャスミン根を含んでいたと考えられる。著書は多かったが残っていない。中国では近代までにおいて、手術は儒教の教えに反するとされたため、西洋の医師により考えが導入されるまで行われなかった。
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