『三国志演義』における赤壁の戦い
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「赤壁の戦い」の記事における「『三国志演義』における赤壁の戦い」の解説
小説『三国志演義』における赤壁の戦いの記述は、史実に基づきつつも創作が多々含まれている。 208年、華北を制した曹操が江南を平らげようと、7月に50万の兵を率いて南下を開始した。ちょうどそのころ劉表が死去し、後を継いだ劉琮と後見人の蔡瑁は曹操に降伏してしまう。曹操は荊州の兵を合わせ100万と号した。 劉備は、劉表死去の混乱に乗じて荊州を奪うという諸葛亮の進言を容れず、曹操軍に追われながらひたすら南に逃げるが、劉備を慕う数十万もの領民を引き連れたため進軍速度が上がらず、長坂坡で追いつかれてしまう。この危機を趙雲と張飛の活躍で逃れ(長坂の戦い)、夏口の劉琦の下へ落ち延びる。 一方、江東に勢力を伸ばしていた孫権は曹操南下の報に驚き、文官武官を集めて降伏するか戦うかの会議を始める。文官のほとんどは降伏を主張していたが、劉備の軍師である諸葛亮が訪問し、主戦論者の魯粛と共に孫権の説得を始める。孫権の兄・孫策の義兄弟でもある周瑜は曹操に降伏する考えであったが、諸葛亮は曹操が「二喬」(孫策の妻・大喬と周瑜の妻・小喬の姉妹)を欲しがっていると告げ、更に曹操の子・曹植がその望みを謳った詩「銅雀台賦」を諳んじたことで周瑜は激怒、孫権に対し主戦論を主張する。これによって孫権は開戦を決意し、自分の机を刀で切りつけ「これより降伏を口にした者は、この机と同じ運命になると思え」と言い放つ。 両軍は、長江に沿う赤壁で対峙した。周瑜は大軍を有する曹操を相手にするには火計しかないと判断し、計略を使いて荊州水軍の要である蔡瑁・張允を謀殺する。更に曹操の策によって偽りの降伏をしてきた蔡瑁の従弟の蔡中・蔡和を利用し、偽情報を曹操軍に流させる。将軍の黄蓋は火計の実行役になるため、周瑜に自ら苦肉の計を進言し、蔡中・蔡和を通じて曹操に偽の降伏を申し出る。 同時に周瑜は、諸葛亮の才が後々呉の災いになることを懸念し、わざと難題を与えて処断させることを目論んで「10万本の矢を集めて欲しい」と依頼する。しかし諸葛亮は、自ら3日と期日を決めた上で快諾する。果たして諸葛亮は、夜霧に乗じて藁人形を積んだ船を出し、曹操軍から矢を射掛けさせることで10万本の矢を回収する。 また、周瑜は蔡中・蔡和を使って、当時まだ野にいた龐統を曹操軍に送り込み、船同士を鎖でつなげる「連環の計」を進言させる。これは水戦に不慣れですぐに船酔いしてしまう曹操軍の兵士のため、船の揺れを和らげる策という名目だったが、その真意は火計の際に船同士を延焼しやすくし、かつ逃げられないようにするためだった。曹操の陣営でただ一人、かつて劉備陣営にいた徐庶だけがこの策を看破したが、曹操に母親を殺されていた徐庶は真実を進言することなく、巻き添えを避けるために北方の馬騰の抑えになることを申し出て戦場から離れる。 問題は、当時の季節の10月は常に北西の風が吹く事だった。反対の東南から風が吹かないと、火計を用いても曹操軍の被害が広がらず、却って自分達の水軍に延焼する恐れがあった。周瑜の悩みを聞いた諸葛亮は東南の風を吹かせると言い、祭壇を作り祈祷する。やがて望んだ通りの東南の風が吹き始めた。 機は熟したとばかりに、黄蓋が投降を装って出船し、密かに積んでいた藁に火をつけて曹操軍に突撃する。「連環の計」のため互いの切り離しが間に合わない曹操軍の船は次々と炎上し、地上に配していた陣にも東南の風で火が燃え広がり、曹操軍は散々に打ち破られる。乱戦に乗じて周瑜が自分を殺そうとしている事を察知した諸葛亮は、東南の風が吹いた直後にその風を利用して劉備の下へ逃げ去る。 一方、劉備軍は諸葛亮の指示の下、曹操の退却先に伏兵を置き、舞い込んできた曹操と残った軍に追い討ちをかける。しかし諸葛亮は「今曹操は天命がつきておらず、殺す事は不可能であるし、殺しても今度は呉が強大になって対抗できなくなるだろう」と判断し、曹操に恩がある関羽をわざと伏兵に置き、あえて関羽が曹操に対し恩を返す機会として与え、関羽が曹操を逃がすのを黙認する。 こうして曹操は荊州の大半を手放さざるを得ず、以後荊州は劉備と孫権の係争地になる。
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