朱元璋との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 22:30 UTC 版)
大漢皇帝を称した陳友諒は、湖北から江西にかけての一帯を勢力に収め、長江下流の応天府に拠る朱元璋、平江路に拠る張士誠と並び立った。その中でも、特に東に勢力を接する朱元璋と激しい抗争を繰り広げた。大義元年(1360年)、陳友諒は朱元璋側の拠点である太平を攻め落とし応天府に迫った。しかし敵将康茂才の偽りの降伏を信じて応天府の攻撃を急ぐあまり、朱元璋軍の反撃を受けて敗北した。その後、朱元璋側に寝返る者が続出し、長江沿岸の拠点を次々に失った。 これを挽回するために大定3年(1363年)、数百隻の大船団を率いて鄱陽湖で朱元璋軍と決戦したが(鄱陽湖の戦い)、火攻めをうけて水軍は壊滅し、陳友諒自身も矢を受けて、弟の陳友仁とともに敗死した。ちなみに『三国志演義』における赤壁の戦いの話は、この戦いを大きく引用したと言われている。
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