朱元璋に仕える
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:10 UTC 版)
1361年8月、朱元璋が江州を攻め、小孤山に至った。傅友徳は丁普郎と共に小孤山を守っていた。丁普郎と共に軍を率いて、朱元璋に降った。朱元璋は傅友徳と話し、彼を珍しい人物と思い、将として用いることにした。 1363年3月、常遇春に従い、安豊を救援し、廬州を攻略した。7月、鄱陽湖の戦いに参加し、軽船で陳友諒軍の先鋒を破った。いくつかの戦傷を負ったが、ひるまずに戦った。諸将と共に涇江口で伏兵として戦い、陳友諒を戦死させた。 1364年2月、武昌を攻めた。武昌城の東南にある高冠山は城中の様子を見ることができた。敵軍がこの山を占拠していた。諸将は高冠山の敵軍が煩わしく思った。傅友徳は数百人を率い、一気に高冠山を奪ってしまった。流れ矢が頬を貫いても気にせず戦った。武昌を攻略し、雄武衛指揮使を授けられた。7月、徐達に従い、廬州を攻略した。別の武将を派遣し、夷陵、衡州、襄陽を攻略した。安陸を攻めて九つの傷を負うも、敵を破り、任亮を捕らえた。 1365年10月、大軍を率いて淮東を攻めた。張士誠の援軍を馬騾港で破り、軍船数千を得た。元の将・竹貞を安豊で破った。陸聚と共に徐州を守った。 1367年2月、ココ・テムルが左丞の李二を遣わし、徐州を攻めてきた。傅友徳は味方が寡兵であるので、城を固く守って戦わなかった。敵軍は陵子村に駐屯し、周囲の掠奪を始めた。その間に3千の兵に河を遡らせ、呂梁に至った。呂梁から進軍し、敵軍を攻撃した。李二は武将の韓乙に迎撃を命じた。傅友徳は槊を奮って武将の韓乙を討ち取り、敵軍を破った。再び李二が攻めてきて、傅友徳は城を出て、城外に陣を張った。兵に武器を持って臥せておき、戦鼓を聞いたらすぐに起き上がって、攻撃するように命令した。李二が戦場に至ると戦鼓を鳴らし、兵士は素早く起き上がり、敵軍の前鋒に攻撃した。敵軍は壊滅し、多くの溺死者を出した。李二を捕らえ、将兵2百余、馬5百を得た。応天に帰還し、江淮行省参知政事に進んだ。その際、朱元璋は鼓吹を奏でさせ屋敷まで帰らせた。
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