朱元璋の部下となる
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至正14年(1354年)春、湯和は朱元璋の部下として、徐達、費聚らと共に定遠を攻める。朱元璋軍は途中で次々に盗賊を吸収して拡大し、滁州を占領した。 至正15年(1355年)、朱元璋が都元帥に昇格すると、その配下として元朝の支配する采石(安徽省馬鞍山市雨山区)、太平(安徽省当塗県)を攻略する。この年、郭子興が死に、朱元璋はその後継者となる。 至正16年(1356年)、朱元璋は集慶(江蘇省南京市)を占領して応天府と改名する。元軍は奪還を試みるが、湯和は徐達、鄧愈らとともに奇襲をかけてこれを退け、これらの功で、統兵元帥となる。翌年、常州金壇(江蘇省常州市金壇区)を下す。
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朱元璋の部下となる
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朱元璋の軍が妙山というところを通った際、馮国用・馮勝兄弟は共に配下となった。朱元璋が馮国用を試して「天下を取るにはどうすればよいと思うか?」と尋ねたところ、「金陵は龍が眠り虎が住まう帝王の都でございます。まずここを押さえねばなりません。そのあと四方に軍を出し、仁義を唱え、人心を掌握し、貧しい者に施し、天下の乱を収めるのがよろしいかと思います」(金陵は集慶の別名、現在の南京市)と答えたため、朱元璋は大いに喜び、側近に加えたという。馮国用はその期待に応えて滁州(安徽省滁州市)攻略に大きな功績を挙げた。
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