開戦を決意(四回の御前会議)
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「太平洋戦争」の記事における「開戦を決意(四回の御前会議)」の解説
7月2日 第五回御前会議 その後も日本政府は関係改善を目指してワシントンD.C.でアメリカと交渉を続けたが、日本軍は7月2日の御前会議における『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』(対ソ戦準備・南部仏印進駐)の決定に従い、7月7日からは[満州での関東軍特種演習に向けて内地から兵員動員が開始される。当時、欧州ではナチス・ドイツのソ連侵攻(バルバロッサ作戦)が順調に進展していた。 南部仏印進駐 7月28日には日本がフランス領インドシナ南部への進駐を実施した(南部仏印進駐)が、イギリスとアメリカは事前に南部仏印進駐反対の意志を表明していたため、両政府内の対日感情は一挙に悪化した。8月1日には「すべての侵略国」への石油輸出禁止の方針を決定し、日本に対しても石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発令し、イギリスとオランダもただちに同調した。この制裁は1940年の日米通商航海条約の破棄から始まり、最初は航空用燃料の禁輸、北部仏印進駐に伴う鉄類の禁輸が実施された。三国同盟締結に伴い、必要物資の3割を占めていたオランダ領東インド(蘭印)との交渉が決裂し、国内物資の困窮が強まっていった。また1940年から41年にかけて民間会社を通じ必要物資の開拓を進めたが、アメリカ政府の干渉によって契約までこぎ着けない上、仏印への進駐および満州増派に伴う制裁が実施され、物資の供給が完全に絶たれることとなった。当時の日本は事実上アメリカから物資を購入しながら大陸にあった日本の権益を蔣介石軍から守っていた。たとえば日米開戦時の国内における石油の備蓄は民事・軍事を合わせても2年分しかなく、禁輸措置は日本経済に対し破滅的な影響を与える恐れがあった。対日制裁を決めた会議の席上、ルーズベルトも「これで日本は蘭印に向かうだろう。それは太平洋での戦争を意味する」と発言している。 9月6日 第六回御前会議 陸海軍は石油禁輸について全く想定しておらず、蘭印当局との日蘭会商も再開の見通しが立たなくなった。9月3日、日本では大本営政府連絡会議において『帝国国策遂行要領』が審議され、9月6日の御前会議で「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。近衛は日米首脳会談による事態の解決を決意して駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘会談し、日米首脳会談の早期実現を強く訴えたが、10月2日、アメリカ合衆国国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。 9月21日、英米ソにより第1回モスクワ会談が開かれた。アメリカはソ連への援助を発言し、10月21日には「大量の軍備品を月末までにソ連に発送する」旨の公式声明を発表した。また、アメリカは「極東の安全は英米が守るのでソ連極東軍を西部のドイツ戦線に移動すべし」とも主張していた。 戦争の決断を迫られた近衛は対中撤兵による交渉に道を求めたが、これに反対する東條英機陸相は、総辞職か国策要綱に基づく開戦を要求したため、10月16日に近衛内閣は総辞職する。後継の東條内閣は18日に成立した。 11月5日 第七回御前会議 11月1日の大本営政府連絡会議では「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完(まつと)うし大東亜の新秩序を建設するため、此の際、英米蘭戦を決意し」「武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す」という内容の『帝国国策遂行要領』が改めて決定した。その後11月5日御前会議で承認された。以降、陸海軍は12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化させた。 11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、南海支隊の戦闘序列を発し、各軍および支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。海軍は、11月26日に真珠湾攻撃部隊をハワイへ向けて出港させた。 ハル・ノートの提示 詳細は「ハル・ノート」を参照 11月20日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意し、来栖三郎特命全権大使および野村大使の手によりハル国務長官に提示して交渉に当たった。11月26日朝、ハル国務長官は両案を拒否し、中国大陸・インドシナからの軍・警察力の撤退、日独伊三国同盟の否定などの条件を含む交渉案、いわゆるハル・ノートを来栖特命全権大使、野村大使に提示した。ここでいう中国大陸が満州を含むかどうかについても議論がある。 日本政府はこのハル・ノートを最後通牒と受け取り、開戦を最終的に決断することになる。ただし、ハルノートが提示された時にはすでに南雲機動部隊が真珠湾にむけて出撃しており、政府は日本側の提示した甲案乙案をアメリカがのまない時点で攻撃を開始する予定だった。[独自研究?][要出典]のちの極東国際軍事裁判(東京裁判)で弁護人を務めたベン・ブルース・ブレイクニーは「もし、ハル・ノートのようなものを突きつけられたら、ルクセンブルクのような小国も武器を取り、アメリカと戦っただろう」と評しており、英領インド出身の判事ラダ・ビノード・パールものちに引用している。アメリカ海軍は同11月26日中にアジアの潜水艦部隊に対して、日米開戦の場合は非武装の商船でも無警告で攻撃してもよいとする無制限潜水艦作戦を発令した。ただしハル・ノートには「極秘、暫定かつ拘束力がない」と明記されており、回答期限も設定されていない。アメリカ側がハル・ノート受諾に関する問い合わせをしたことはなく、その後も交渉継続を行う意志を見せている。 12月1日 第八回御前会議 日米交渉決裂の結果、東條内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定した。
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