開戦前の両国の関係
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「ポーランド侵攻」の記事における「開戦前の両国の関係」の解説
1933年に国家社会主義ドイツ労働者党が政権を握ると、ヒトラーはまずポーランドとの友好政策を図り、1934年にはドイツ・ポーランド不可侵条約を締結した。英仏の対ドイツ宥和政策の結果としてドイツは領土問題に強硬的な姿勢をとるようになり、1938年にオーストリアを併合し、1939年にチェコスロバキアを解体して、ベーメン・メーレン保護領の設置とスロバキアの保護国化を行い、係争中の地域をあらかた自国領に編入してしまった。こうして他の問題が解決するとナチス政権は悲願だったポーランド回廊問題の解決を決定した。ドイツの主な関心事は国際連盟の管理するドイツ人の住む自由都市ダンツィヒの存在と、ポーランド回廊と呼ばれたバルト海に続くポーランド領によってドイツ本土から切り離されている東プロイセンの存在であった。 ポーランドの状況はピウスツキの死を契機に変わっていく。1936年、反ドイツ的史観から、教科書改訂及び従来の教科書回収を各国に求める動きが始まる。 ダンツィヒの状況はドイツにとって腹立たしい存在だった。ここは第一次大戦におけるドイツの敗戦によってドイツから奪い取られた領土であるため、ヒトラーはダンツィヒのドイツ系住民の解放を大義名分とした。1939年初頭にヒトラーは軍事力によるポーランド問題の解決を準備する秘密命令を下し、続いてドイツ政府は自由都市ダンツィヒのドイツへの編入要求と、ポーランド回廊を通過し東プロイセンとドイツ本土を結ぶ治外法権の道路建設の要求を強めた。ポーランド侵攻計画は4月3日までに準備が整っていた。 ヒトラーは、ポーランドがドイツの要求に譲歩するものと考えていた。しかし、ポーランド政府は要求を拒否した。ドイツの国威復興に危機感を抱いたイギリスとフランスは3月30日にポーランドに対し、軍事援助の保証をしてポーランド政府の方針を支持した。ヒトラーはイギリスとフランスを、来るべきポーランドとの戦争に介入させないようにできると考えていた。4月28日にドイツは、1934年に締結されていたドイツ・ポーランド不可侵条約と、1935年に締結されていたロンドン海軍軍縮条約の両方を破棄した。一方ポーランドは、1938年のミュンヘン協定の直後に、チェシン市のうちチェコスロバキア領だった部分(チェスキー・チェシンČeský Těšín市)を自国領に併合することでドイツの拡張主義から利益を得ることとなった。この地は以前からポーランドとチェコスロバキアで領有権を争っていた経緯がある。チェスキー・チェシンは面積こそ小さいが、人口構成はポーランド人が多数派で、炭鉱を中心としたその経済はポーランドの中央産業地帯 (Centralny Okręg Przemysłowy) と密接な相互依存の関係にあった。ドイツとの戦争の可能性は年々高まってきており、ポーランドは自国の工業化を急ぐため中央産業地帯に多大な投資をしていた。 1919年から1939年までの期間、イギリスの基本的な外交政策の主眼は、飴と鞭の使い分けによって世界大戦の再発を防ぐことにあった。鞭とは1939年春にポーランドに保証した軍事援助で、これはドイツがポーランドやルーマニアを攻撃するのを防ぐためであった。同時に、首相のネヴィル・チェンバレンと外相のハリファックス卿(en)はミュンヘン協定と同様のやり方でヒトラーにアメを与えることを考えた。これは自由都市ダンツィヒとポーランド回廊を、ポーランドの他の部分の領土保全の保障と引き換えにドイツに割譲することであった。 これはしかし、ポーランド外相ユゼフ・ベック大佐がチェンバレンやハリファックス卿と会談した後、変更された。1939年8月25日にフランス・ポーランド間の軍事同盟を補完するものとしてイギリス・ポーランド相互援助条約が締結された。これでイギリスはポーランドの独立を守る義務を負った。 一方、モスクワではドイツとソ連の秘密会談が続けられ、8月23日には独ソ不可侵条約が締結された。ヒトラーはこの条約によって、ドイツがポーランドを侵攻してもソ連がそれに反対しないことを確実にした。また、条約の秘密議定書に、ドイツとソ連はポーランドを分割占領(西側3分の1はドイツが、東側3分の2はソ連が占領)することに合意した。 ドイツによるポーランドへの奇襲攻撃は、8月26日午前4時に予定されていた。しかし8月25日にイギリス政府は、ポーランドの独立はイギリス・ポーランド間の同盟によって正式に保障されたと発表した。ヒトラーは予定の奇襲をためらい、攻撃開始を9月1日に延期した。その間ドイツは8月26日、ポーランドとの来るべき軍事衝突にイギリスとフランスが介入することを思いとどまらせようと、両国を相手に交渉した。ヒトラーは、ドイツがポーランドを攻撃しても、ポーランドの西側同盟国がドイツに対し宣戦布告する可能性はほとんどないとの確証を得た。もし宣戦布告しても、ポーランドに対する国境線の確約はないのだから、ポーランドを占領してしまえば交渉によって、ドイツにとって有利な譲歩を引き出せると考えた。また23日、ヒトラーは既にハリファックスに対して「ことの本質は長年の政治的問題にあるのであり、軍事力の大小にあるのではないこと」を告げており、英仏の参戦はドイツにとって問題ではなかった。米国やイタリアらの交渉をポーランドや西側同盟国が拒否するまで、宣戦布告は長引いた。ドイツ国防軍の情報部(アプヴェーア)による国境を越えた襲撃や破壊行為とそれに対応したポーランド側との小競り合い、ドイツの高々度偵察機による領空侵犯の件数は増加し、戦争勃発は差し迫った状態になっていた。 8月29日、ドイツはポーランドに対しポーランド回廊割譲を要求する最後通牒を突きつけた。ポーランドは内容をすべてを理解するのに手間取り、説明を受けるために役人をドイツ外務省へ出向かせることを考えたが、呼び出しなしに一方的にドイツ外務省へ出向くのは貴族的ではないとしてこれを取り止めた。加えてドイツが内容説明のために何者かを派遣してくるだろうと予測をしていたため何か行動を起こすこともなかったが、そのうちに最後通牒の回答期限が来てしまった。ドイツはこれをポーランドが黙殺したと主張して、ドイツ外相リッベントロップはポーランドとの交渉打ち切りを宣言した。 8月30日、ポーランド海軍は駆逐艦艦隊をイギリスに向けて出航させた(ペキン作戦 Plan Peking)。ドイツ海軍に劣るポーランド海軍が、バルト海で破壊されないようにするための措置だった。同日、ポーランドのエドヴァルト・ルィツ=シミグウィ元帥はポーランド軍の「戦時動員」を布告した。 1939年8月31日、ヒトラーは戦争開始を翌日の朝4時45分とする命令を下した。この時点でポーランド軍は動員予定の70%(予備役も含めた全軍の半分)しか達成できておらず、多くの部隊は隊形を整えてることすらできていなかった。開戦時には守備隊が守りを固めることはおろか、それぞれが与えられた守備位置に向かって移動をしている最中という有様であった。
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