開戦前の両国の関係とは? わかりやすく解説

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開戦前の両国の関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 00:56 UTC 版)

ポーランド侵攻」の記事における「開戦前の両国の関係」の解説

1933年国家社会主義ドイツ労働者党政権を握ると、ヒトラーはまずポーランドとの友好政策図り1934年にはドイツ・ポーランド不可侵条約締結した英仏の対ドイツ宥和政策結果としてドイツ領土問題強硬的な姿勢をとるようになり、1938年オーストリア併合し1939年チェコスロバキア解体してベーメン・メーレン保護領設置スロバキア保護国化行い係争中の地域あらかた自国領に編入してしまった。こうして他の問題解決するナチス政権悲願だったポーランド回廊問題解決決定したドイツ主な関心事国際連盟管理するドイツ人の住む自由都市ダンツィヒ存在と、ポーランド回廊呼ばれたバルト海に続くポーランド領によってドイツ本土から切り離されている東プロイセン存在であったポーランド状況ピウスツキの死を契機変わっていく。1936年、反ドイツ史観から、教科書改訂及び従来教科書回収各国求め動きが始まる。 ダンツィヒ状況ドイツにとって腹立たしい存在だった。ここは第一次大戦におけるドイツ敗戦によってドイツから奪い取られ領土であるため、ヒトラーダンツィヒドイツ系住民解放大義名分とした。1939年初頭ヒトラー軍事力によるポーランド問題解決準備する秘密命令下し続いてドイツ政府自由都市ダンツィヒドイツへ編入要求と、ポーランド回廊通過し東プロイセンドイツ本土を結ぶ治外法権道路建設要求強めたポーランド侵攻計画4月3日までに準備整っていた。 ヒトラーは、ポーランドドイツ要求譲歩するものと考えていた。しかし、ポーランド政府要求拒否したドイツ国威復興危機感抱いたイギリスフランス3月30日ポーランド対し軍事援助保証をしてポーランド政府の方針支持したヒトラーイギリスフランスを、来るべきポーランドとの戦争介入させないようにできると考えていた。4月28日ドイツは、1934年締結されていたドイツ・ポーランド不可侵条約と、1935年締結されていたロンドン海軍軍縮条約両方破棄した一方ポーランドは、1938年ミュンヘン協定直後に、チェシン市のうちチェコスロバキア領だった部分(チェスキー・チェシンČeský Těšín市)を自国領に併合することでドイツ拡張主義から利益を得ることとなった。この地は以前からポーランドチェコスロバキア領有権争っていた経緯がある。チェスキー・チェシンは面積こそ小さいが、人口構成ポーランド人多数派で、炭鉱中心としたその経済ポーランド中央産業地帯 (Centralny Okręg Przemysłowy) と密接な相互依存の関係にあったドイツとの戦争可能性年々高まってきており、ポーランド自国工業化を急ぐため中央産業地帯多大な投資をしていた。 1919年から1939年までの期間、イギリス基本的な外交政策主眼は、飴と鞭使い分けによって世界大戦再発を防ぐことにあった。鞭とは1939年春にポーランド保証した軍事援助で、これはドイツポーランドルーマニア攻撃するのを防ぐためであった同時に首相ネヴィル・チェンバレン外相ハリファックス卿en)はミュンヘン協定同様のやり方ヒトラーアメ与えることを考えた。これは自由都市ダンツィヒポーランド回廊を、ポーランドの他の部分領土保全保障引き換えドイツ割譲することであった。 これはしかしポーランド外相ユゼフ・ベック大佐チェンバレンハリファックス卿会談した後、変更された。1939年8月25日にフランス・ポーランド間の軍事同盟補完するものとしてイギリス・ポーランド相互援助条約締結された。これでイギリスポーランド独立を守る義務負った一方モスクワではドイツソ連秘密会談が続けられ8月23日には独ソ不可侵条約締結された。ヒトラーはこの条約によって、ドイツポーランド侵攻してもソ連がそれに反対しないことを確実にした。また、条約秘密議定書に、ドイツソ連ポーランド分割占領西側3分の1ドイツが、東側3分の2ソ連占領)することに合意したドイツによるポーランドへの奇襲攻撃は、8月26日午前4時予定されていた。しかし8月25日イギリス政府は、ポーランド独立イギリス・ポーランド間の同盟によって正式に保障されたと発表したヒトラー予定奇襲ためらい攻撃開始9月1日延期したその間ドイツ8月26日ポーランドとの来るべき軍事衝突イギリスフランス介入することを思いとどまらせようと、両国相手交渉したヒトラーは、ドイツポーランド攻撃しても、ポーランド西側同盟国ドイツ対し宣戦布告する可能性ほとんどないとの確証得た。もし宣戦布告しても、ポーランド対す国境線確約はないのだから、ポーランド占領してしまえば交渉によって、ドイツにとって有利な譲歩引き出せると考えた。また23日ヒトラーは既にハリファックスに対して「ことの本質長年政治的問題にあるのであり、軍事力大小にあるのではないこと」を告げており、英仏参戦ドイツにとって問題ではなかった。米国イタリアらの交渉ポーランド西側同盟国拒否するまで、宣戦布告長引いたドイツ国防軍情報部(アプヴェーア)による国境越えた襲撃破壊行為とそれに対応したポーランド側との小競り合いドイツ高々度偵察機による領空侵犯件数増加し戦争勃発差し迫った状態になっていた。 8月29日ドイツポーランド対しポーランド回廊割譲要求する最後通牒突きつけた。ポーランド内容をすべてを理解するのに手間取り説明を受けるために役人ドイツ外務省出向かせることを考えたが、呼び出しなしに一方的にドイツ外務省出向くのは貴族的ではないとしてこれを取り止めた加えてドイツ内容説明のために何者かを派遣してくるだろうと予測をしていたため何か行動を起こすこともなかったが、そのうち最後通牒回答期限来てしまった。ドイツはこれをポーランド黙殺したと主張してドイツ外相リッベントロップポーランドとの交渉打ち切り宣言した8月30日ポーランド海軍駆逐艦艦隊イギリス向けて出航させた(ペキン作戦 Plan Peking)。ドイツ海軍に劣るポーランド海軍が、バルト海破壊されないようにするための措置だった。同日ポーランドエドヴァルト・ルィツ=シミグウィ元帥ポーランド軍の「戦時動員」を布告した1939年8月31日ヒトラー戦争開始翌日の朝4時45分とする命令下した。この時点ポーランド軍動員予定70%(予備役含めた全軍半分)しか達成できておらず、多く部隊隊形整えてることすらできていなかった。開戦時には守備隊守り固めることはおろかそれぞれ与えられ守備位置向かって移動をしている最中という有様であった

※この「開戦前の両国の関係」の解説は、「ポーランド侵攻」の解説の一部です。
「開戦前の両国の関係」を含む「ポーランド侵攻」の記事については、「ポーランド侵攻」の概要を参照ください。

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