開戦前の英領マレーとは? わかりやすく解説

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開戦前の英領マレー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 17:10 UTC 版)

マレー作戦」の記事における「開戦前の英領マレー」の解説

長年イギリスの植民地支配下に置かれていたシンガポールは、日英同盟破棄以降イギリス軍によって防御設備強化進められ東洋ジブラルタル」とも称されていた。海に面した南側には戦艦主砲並み15インチ38センチ)砲をはじめとする重砲群とトーチカ群が構築され、さらに多数戦闘機群が配備され難攻不落要塞と言われていた。北側ジョホール海峡側および同じく植民地であるマレー半島におけるイギリス軍防備手薄であったが、広大なマレー半島そのもの天然防壁となると考えられていた。上陸能地点であるタイ領内シンゴラ(ソンクラ)からシンガポールまでは1,100キロの距離があり、マレー半島縦断する道路一本道両側には鬱蒼たるジャングルゴム広がっていた。さらに半島には大小250本の河川流れ、南に撤退するイギリス軍橋梁破壊すれば容易に日本軍の進撃阻止できる考えられた。その間イギリス軍シンガポール北側防備強化することができると考えていた。 イギリス軍国際情勢悪化受けて東南アジアにおける一大拠点植民地)であるマレー半島及びシンガポール方面兵力増強進めており、開戦時兵力イギリス19,600インド37,000オーストラリア15,200、その他16,800合計88,600達していた。兵力数は日本軍開戦時兵力の2倍であったが、訓練未了部隊多く戦力的には劣っていた。軍の中核となるべきイギリス第18師団はいまだ輸送途上であったまた、ヨーロッパ戦線およびアフリカ戦線主要部隊張り付かざるを得ない状況であったことから、これらの植民地配置され兵士多く世界各地イギリスの植民地から集めた異な民族寄せ集めであり、統帥には苦心があった。特に多数占めたインド兵たちは、生活の糧を得るためにイギリス軍入隊したものの、祖国植民地支配抑圧するイギリス人のために、祖国から遠く離れたマレーの地で命を投げ出す理由など持ち合わせていなかった。 空軍については現地司令部から本国幾度も増強要請なされたが、ドイツ軍に対して劣勢でその対応だけで手一杯であった本国はこれに対応できなかったため、開戦当時イギリス空軍中心バッファローの二線級機とならざるを得なかった(開戦後1942年1月後半以降主力ハリケーン順次投入)。さらに、日本軍対す研究不十分なイギリス空軍は「ロールス・ロイスダットサン戦争だ」と人種的な偏見からも日本軍航空部隊を見くびっていた。

※この「開戦前の英領マレー」の解説は、「マレー作戦」の解説の一部です。
「開戦前の英領マレー」を含む「マレー作戦」の記事については、「マレー作戦」の概要を参照ください。

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