ミュンヘン会談
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ミュンヘン会談(ミュンヘンかいだん)は、1938年9月29日から30日に、チェコスロバキアのズデーテン地方帰属問題解決のため、ドイツのミュンヘンで開催された国際会議。
注釈
- ^ 2001年6月15日、アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ大統領はワルシャワ大学において「今後いかなるミュンヘンも、あるいはヤルタも起こることはないであろう」という演説を行ったが、これはミュンヘン会談がのちに全面的破局を招くことになった失敗の経験として、イギリス、フランスの責任を問う歴史用語として使用されたものである[1]
出典
- ^ 松川克彦「ジョージア問題と西ヨーロッパ諸国の対ロシア宥和政策」(PDF)『京都産業大学論集 社会科学系列』第27号、京都産業大学、2010年3月、pp.227-254、NAID 40019296491。
- ^ 大井孝 2008, p. 478.
- ^ 堀内直哉 2006, p. 60-61.
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- ^ ジョン・トーランド 永井淳訳「アドルフ・ヒトラー3」集英社文庫
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- ^ How Hitler Invaded Half Of Europe | Greatest Events of World War 2 In Colour Discovery UK
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- ^ a b 大井孝 2008, p. 520.
- ^ 相馬保夫 2010, pp. 251–253.
- ^ 矢田部順二 1998, p. 130.
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- ^ 矢田部順二 1998, p. 135-136.
- ^ a b c d ジョン・トーランド 永井淳訳「アドルフ・ヒトラー」集英社文庫
- ^ 島田顕 & 2011-11, p. 96-97.
- ^ 大井孝 2008, p. 486-473.
ミュンヘン協定
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ドイツ・イギリス・フランス・イタリアは、原則としてすでにズデーテン地方のドイツへの譲渡について合意しているが、その遂行について以下のように協議した。この協定の遂行に各国は責任を負う。 (ズデーテン地方からのチェコスロバキア軍・官吏の)退去は1938年10月1日から開始される。 イギリス・フランス・イタリアは、チェコスロバキア政府が(ズデーテン地方からのチェコスロバキア軍・官吏の)退去について1938年10月10日までに域内の動産の破壊を伴わず完了させる責任を負うことに同意する。 退去の詳細はイギリス・フランス・イタリア・チェコスロバキア・ドイツの代表で構成される国際委員会の裁定により定める。 ドイツ軍の占領は1938年10月1日より開始される。占領地域は4つの地域に分けられ、次の順序で占領される。(1)の地域は10月1日〜2日に、(2)の地域は10月2日〜3日に、(3)の地域は10月3日〜5日に、(4)の地域は10月6日〜7日に占領され、その他のドイツ人が多数居住する地域は前述の国際委員会の承認のうえで、10月10日に占領される。(掲載図と、この地域を指す数字との関連性はない) 国際委員会は、人民投票を行う地域を決定する。投票の完了までは国際機関に統治される。人民投票の方法は、ザールでの方法を修正して行う。国際委員会は、投票日を11月末までの間において設定する。 国境の最終的な画定は、国際委員会によってなされる。同委員会は4つの列強、ドイツ・イギリス・フランス・イタリアに勧告する権利を持つが、些細な民族誌学的な判断については人民投票無しに国境を確定することができる。 住民の譲渡地域内外への移転選択権は、本協定成立の日から6ヶ月以内に行使されるものとする。ドイツ系住民の委員会は、この際に起こる問題の詳細を検討し、解決する。 本協定成立4週間以内に、チェコスロバキア軍と警察は、退役したいと望むズデーテン・ドイツ人を退役させねばならない。また、チェコスロバキア政府は、政治犯として収監されているすべてのズデーテン・ドイツ人を釈放しなければならない。 協定の結果、ズデーテン地方は1938年10月1日から動産もろともナチス・ドイツに即時割譲すること、加えてその他のドイツ人が優勢を占める地域は国際委員会の裁定により、人民投票によって所属を決定する事が定められた。
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