ミュンヘン大学時代
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「マックス・フォン・ペッテンコーファー」の記事における「ミュンヘン大学時代」の解説
ミュンヘン大学では主としてヒトの代謝と栄養に関する研究を行い、1862年には助手であり親友でもあったカール・フォイトとの共同研究で、ヒトが入ることの可能な大型熱量計を開発してヒトの生理的熱量の測定法を確立し、呼吸と代謝に関する実験で成果を上げた。 またペッテンコーファーは医学、薬学、化学など多岐の分野に精通していただけではなく、実験科学の考えに根ざした実証的な検証と、複数分野を有機的に結びつけた科学的世界観を有していた当代屈指の研究者であった。その業績は医化学にとどまらずに多岐に亘り、そのいずれもが科学、行政、産業、美術に多大な影響と貢献を果たした。 セメントの改良 当時のドイツのセメントは質が悪くて建築用途には利用できず、イギリスから輸入したものを用いていた。1849年、この件について相談を受けたペッテンコーファーはセメントの製法を検討してイギリス産の高級品と同等の品質に改良した。 色ガラス複製品の開発 美術品に用いられていた古代ガラス(アヴェンチュリンやヘマチンなど)のイミテーションを作るために必要な色素を開発した。この業績によって、芸術を愛したことでも知られるルートヴィヒ1世に認められたといわれる。 廃材から可燃性ガスを生産する方法の開発 当時灯火用に使用されていたガス灯は、石炭から作り出した可燃性ガスを燃料としていたが、ドイツ南部の森林地帯は石炭の産地に遠く、その十分な供給を賄うことができなかった。1851年、この件について相談を受けたペッテンコーファーはこの地域に豊富な木材および廃材を一度炭化して木炭を作り、それから可燃性ガスを産生するという方法を開発した。この木炭ガスを用いたガス灯はドイツ南部やオーストリア、ハンガリーの各都市に波及し、やがてドイツの全鉄道駅に取り付けられた。 電線の亜鉛メッキの技術提供 当時、バイエルン鉄道では電線に亜鉛メッキした鉄線を利用していたが、ペッテンコーファーは担当者からの助言要請に応じて、鉄線を酸素や雨などによるダメージから守るためには、どのくらいの厚さの亜鉛メッキが必要なのかについて明らかにし、化学知識がない人にもできる厚みの検査方法と、厚みを調整する可能な製造方法を回答した。 油絵表面に生じた灰色サビの原因解明と対策 1861年、美術品として蒐集された油絵の表面が、灰色のサビ状のものに覆われるという原因不明の現象がヨーロッパ各地で発生した。この件について相談を受けたペッテンコーファーは、この現象が油絵に含まれている亜麻仁油が湿気に晒されて微小な水滴が内部に生じたためであることを解明し、含水アルコールによる除去法と、灰色サビが生じにくくなるような画材の開発に貢献した。このペッテンコーファーによる発見は美術館における湿度コントロールの重要性を広く知らせるものとなった。 これらの研究はバイエルン王国やミュンヘン市民の要請に応じてなされたものが多く、事前に他の専門家に相談したものの解決できなかった問題が多かった。しかし、ペッテンコーファーは直接の専門分野でない難問でも見事に解決した。なお、これらの研究は今日であればそれぞれ特許を取得して大きな利益が得られるほどのものであったが、ペッテンコーファーがこれらの研究成果を独占して直接の利益を得ることはなく、あくまで国家と国民のために行ったといわれる。折しもヨーロッパでは国家主義の風潮が強まりつつあった中、ペッテンコーファーはこれらの業績によってバイエルン科学界のリーダーとしての地位を獲得していった。やがて間もなく、1871年のドイツ統一によってバイエルン王国がドイツ帝国に統合されると、首都になったベルリンを含むドイツ北部地域とバイエルンなどを含む南部地域は、互いに競争しあうライバルのような存在になり、ややもするとドイツ南部は「野蛮な、田舎者の住む」地域だという揶揄を受けることもあったが、その中においてペッテンコーファーはバイエルンの先進性をアピールする、ミュンヘン市民やバイエルン王国民の誇りと呼べる存在でもあった。
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