ミュンヘン協定、独ソ不可侵条約とは? わかりやすく解説

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ミュンヘン協定、独ソ不可侵条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/09 17:19 UTC 版)

ポール・ニザン」の記事における「ミュンヘン協定、独ソ不可侵条約」の解説

1938年9月29日ミュンヘン協定締結ニザンは深い失望覚えフランス首相エドゥアール・ダラディエ外相ジョルジュ・ボネ(フランス語版)、イギリス首相ネヴィル・チェンバレン反共主義批判した。『ス・ソワール』紙の国際政治担当の彼は、ミュンヘン会談に至るまでの経緯記録していたが、会談開催前日に断念し、翌1939年に『九月クロニクル』として発表した生前発表され最後著書だが、ナチス没収され焼却された。1978年出版され復刻版では、娘アンヌ=マリーの夫で作家ジャーナリストのオリヴィエ・ドット(フランス語版)(エマニュエル・トッドの父)が序文書いている。 1939年8月23日スターリンヒトラー独ソ不可侵条約締結したことは世界中大きな衝撃与えたとりわけ反ファシズム掲げた左派政党知識人団体なかでも共産党にとっては大きな痛手であり、指導部8月26日付の『リュマニテ』紙で「独ソ不可侵条約は、ナチズム基本的教義全体の突然の放棄である」と苦し弁明をしたが、ダラディエ内閣『リュマニテ』紙、『ス・ソワール』紙、『コミューン』誌など共産党すべての刊行物発禁処分にし、さらに、集会宣伝活動禁止した9月1日ドイツポーランド侵攻すると、翌2日総動員令が発せられた。9月17日ソ連ポーランド侵攻した6日後の9月23日ニザン配属され連隊駐屯地から直接交流のあった共産党指導部のジャック・デュクロ(フランス語版)に、「離党届提出する。現在、軍務服する兵士として、これ以上は何も書けない」とだけ書かれ離党届提出した奇妙な戦争の間にニザン次作『ソモシエラの夜会Soirée à Somosierra)』の執筆取りかかった。この作品実戦が始まるまでに完成していたとされるが、原稿は見つかっていない。 1940年5月ドイツ軍フランス侵攻すると、ダンケルク近く駐屯する英国軍通訳として転属されたが、1940年5月23日ダンケルクの戦いにおいてパ=ド=カレー県オードリュイク(フランス語版)で流れ弾当たって戦死した享年35歳同県ヌーヴィル=サンヴァフランス語版)のタルジェット国立戦没者霊苑(Nécropole nationale de la Targette)に眠る。1956年墓石に「通訳連絡将校フランスのために死すフランス語版)」と刻まれた。

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