ミュンヘン協定、独ソ不可侵条約
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「ポール・ニザン」の記事における「ミュンヘン協定、独ソ不可侵条約」の解説
1938年9月29日のミュンヘン協定締結にニザンは深い失望を覚え、フランス首相エドゥアール・ダラディエ、外相ジョルジュ・ボネ(フランス語版)、イギリス首相ネヴィル・チェンバレンの反共主義を批判した。『ス・ソワール』紙の国際政治欄担当の彼は、ミュンヘン会談に至るまでの経緯を記録していたが、会談開催前日に断念し、翌1939年に『九月のクロニクル』として発表した。生前に発表された最後の著書だが、ナチスに没収され焼却された。1978年に出版された復刻版では、娘アンヌ=マリーの夫で作家・ジャーナリストのオリヴィエ・ドット(フランス語版)(エマニュエル・トッドの父)が序文を書いている。 1939年8月23日、スターリンとヒトラーが独ソ不可侵条約を締結したことは世界中に大きな衝撃を与えた。とりわけ反ファシズムを掲げた左派の政党や知識人団体、なかでも共産党にとっては大きな痛手であり、指導部は8月26日付の『リュマニテ』紙で「独ソ不可侵条約は、ナチズムの基本的教義全体の突然の放棄である」と苦しい弁明をしたが、ダラディエ内閣は『リュマニテ』紙、『ス・ソワール』紙、『コミューン』誌など共産党のすべての刊行物を発禁処分にし、さらに、集会や宣伝活動も禁止した。 9月1日にドイツがポーランドに侵攻すると、翌2日に総動員令が発せられた。9月17日にソ連がポーランドに侵攻した6日後の9月23日、ニザンは配属された連隊の駐屯地から直接交流のあった共産党指導部のジャック・デュクロ(フランス語版)に、「離党届を提出する。現在、軍務に服する兵士として、これ以上は何も書けない」とだけ書かれた離党届を提出した。 奇妙な戦争の間にニザンは次作『ソモシエラの夜会(Soirée à Somosierra)』の執筆に取りかかった。この作品は実戦が始まるまでに完成していたとされるが、原稿は見つかっていない。 1940年5月にドイツ軍がフランスに侵攻すると、ダンケルク近くに駐屯する英国軍に通訳として転属されたが、1940年5月23日、ダンケルクの戦いにおいてパ=ド=カレー県オードリュイク(フランス語版)で流れ弾に当たって戦死した。享年35歳。同県ヌーヴィル=サン=ヴァ(フランス語版)のタルジェット国立戦没者霊苑(Nécropole nationale de la Targette)に眠る。1956年、墓石に「通訳・連絡将校、フランスのために死す(フランス語版)」と刻まれた。
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