ミュンヘン新芸術家協会に至る構想
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ミュンヘン新芸術家協会の前身となったのは、ロシア人女流芸術家のマリアンネ・フォン・ヴェレフキンが1897年に自身の第二の故郷であったミュンヘンのシュヴァービング区で周囲の知人とはじめた聖ルカ信徒会の「バラ色サロン(rosafarbenen Salon)」であった。サロンのメンバーは、自分たちのサロンが伝統的な聖ルカ組合の枠内にあると認識していた。当時すでにマニフェストの表明としての展覧会の開催を計画していた。 ミュンヘン新芸術家協会に関して言えば、アイディアはすでにヴェレフキンのサロンで生まれていた。1908年のクリスマスのことである。ヴェレフキン以外にはアレクセイ・ヤウレンスキー、アドルフ・エルプスレーと作曲家のドクトル・オスカー・ヴィッテンシュタイン(1880 - 1919)が参加して、「新芸術家協会」を設立した。さしあたり、ガブリエレ・ミュンターとヴァシリー・カンディンスキーはこの計画を知らされていなかった。カンディンスキーはのちに、自分のいないところで協会準備のための会合が開かれていたことを知り、怒りをあらわにした。1909年の1月、ミュンヘン新芸術協会の取りまとめ役となることを勧められると、しぶしぶながらもこれを受け入れて怒りを鞘におさめた。
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