ミュンヘン時代(1909-1915)
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「ガブリエレ・ミュンター」の記事における「ミュンヘン時代(1909-1915)」の解説
1909年1月、カンディンスキーを会長にミュンター、ヤウレンスキー、ヴェレフキンを創立会員として「ミュンヘン新芸術家協会」が発足した。年末に行われた新芸術家協会第一回展にはミュンターの油彩10点と木版画11点が展示された。 この年彼女はムルナウに家を購入、翌年以降彼女は毎夏数か月をここでカンディンスキーとともに過ごし、たくさんのミュンヘン前衛画家を迎えた。そこに滞在したのはマリアンネ・フォン・ヴェレフキン、アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー、アドルフ・エルプスレーらであり、後にはフランツ・マルク、アウグスト・マッケも住み、そして作曲家のアルノルト・シェーンベルクもまた時折そこで過ごした。この様にカンディンスキーを中心とした前衛芸術家が集った彼女の家はムルナウの人々から「ロシア人の家」と呼ばれた。1910年の新芸術家協会第二回展は、ブラックやピカソ、ルオーといった特にフランスの国際的な芸術家の参加を得て開かれた。翌1911年、協会内の対立からメンバーの間に分裂がおこり、カンディンスキーやミュンター、フランツ・マルクが脱会する。彼らは「青騎士」という若い芸術家集団の中核を成した。青騎士共同の展覧会を通してミュンターは初めて大きな芸術的成果を体験した。第一回青騎士展が開かれたのは、その年12月のことであった。1912年2月、青騎士第二回展が開催された。この年のアンデパンダン展(パリ)にミュンターは絵画2点を出品している。1913年1月にはベルリンのシュトゥルム画廊で、ミュンター初の回顧展が行われ、84点の絵画が並べられた。1914年に第一次世界大戦がはじまると、敵国人とのレッテルが貼られたカンディンスキーは祖国ロシアに戻ることを考え始めた。1914年の内にミュンターはカンディンスキーとともにボーデン湖畔の町、スイスのマリアハルデに移った。同年11月、バルカン半島を経由してカンディンスキーはロシアへ帰国した。ミュンターはチューリヒに残り、中立国スウェーデンでカンディンスキーに会う準備を始めた。1915年7月、ミュンターはストックホルムに移る。彼女は同地の芸術家たちと盛んに交流した。年末にカンディンスキーと会い、翌1916年初頭にはミュンターの尽力によりストックホルムのグメンソン画廊でカンディンスキーとミュンターの展覧会が何度か開かれている。二人は3月16日まで一緒に過ごしたが、それはカンディンスキーとミュンターの最後の日々となった。1916年3月16日、カンディンスキーはストックホルムを立ち、その後二度とミュンターと会うことはなかった。彼女はなおもカンディンスキーと再会できることに望みを抱き続け、スカンディナビアで彼を待ち続けた。カンディンスキーから何の音沙汰も無いのは、彼がロシア革命の混乱に巻き込まれているためだと信じていた。しかし実際には彼は革命渦中のモスクワで複数の芸術家委員会に所属して活動し、1917年2月に同地で軍士官の娘ニーナ・アンドレーフスカヤと結婚していた。1917年以降、カンディンスキーはミュンターとのほとんどすべての接触を拒んだ。その年の内に、彼女はカンディンスキーが別の女性と結婚したことを知った。これにより、カンディンスキーとミュンターの関係は完全に崩壊した。この別離ののち、ミュンターは絵筆を握ることが少なくなった。
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